前回 に引き続き、萱津の戦いのお勉強の続きです~。
信長が今川氏といざこざしてるとき、
実際に清洲織田氏の指揮をとっていた『坂井大膳』が、
信長側の城“松葉城”と“深田城”を攻撃、2城の城主を人質にします。
松葉城跡 (光暁寺)
よーーーく、手前の石碑をみると「松葉」と書いてあります。
深田城跡 (箱根社)
松葉城跡からテクテク歩くこと3分ほどのところにあります
こんな至近距離で、陣城じゃない城が複数あることに驚きました。
バリバリの平城ですけど、どんな構えをしてたんでしょうね
深田城の織田信次って人は信長の叔父さんなんですが、
松葉城の織田伊賀守って人は誰か不明です。
(ホント織田氏って多いですね。イヤ。松平に比べれば全然可愛いか・・・)
自分に味方してくれてる人の城が攻撃されて黙ってる信長さんなわけありません。
叔父さんの守山城の織田信光に援軍要請して、稲葉地城で合流します
そのすぐ脇にこんな石碑が立っていました。
これ、“伯父”じゃなくて“叔父”の間違いですね。
稲葉地城の城主は織田信光(津田信光)ですし、
信秀さん長男だから信長に伯父さんはいませんので。(母方は別として)
守山城を与えられる前に稲葉地城の城主だったのか、逆かはちと分かりませんが・・・。
稲葉地城からすぐのところにある(車で1分ほど)凌雲寺は、
信長もとい吉法師が勉強しに通ったお寺だそうです。
凌雲寺 織田木瓜の家紋がはいってる~!
稲葉地城で合流した信長&信光軍と清洲織田氏の軍が激突したのが“萱津”です。
現在は“萱津神社”(別名 漬物神社)があるそうですが、戦国一辺倒なkaiさんは神社スルー
ここで両軍がドンパチして、信長&信光側の勝利~
奪われた深田城と松葉城の奪回に成功します。
一方、負けた清洲織田氏は信長の暗殺計画を企てます
そんな中、清洲織田氏の下にいた守護の斯波義統さんが
「清洲織田信友は戦に負けるし、ワシのこと守護として扱わないし・・・」と不満を抱えて、
暗殺計画のことを信長さんに密告!
清洲織田信友は憤慨して、斯波義統を自害(暗殺?)させちゃいました。
これは信長にとってものすんごく大きな出来事
もともと信長の織田家は清洲織田氏の家臣ですから、理由もなく討つことはできません。
ところが“尾張守護の斯波氏を討った”とあれば清洲織田氏は逆賊です。
守護の斯波義統の息子 義銀から「清洲織田信友を討て!」との命も発させられ、
主家を討つ大義名分を得た信長は1555年 守護代 清洲織田氏を滅亡させました。
と、こんなカンジなのですが
H24.12.16(日)に愛知県あま市で『戦国時代の萱津 萱津合戦』という講演会が開かれます。
詳細はコチラ → あま市HP 歴史文化 講演事業
私、参加できないので誰か聞いてきてレポあげてください(笑)