いつぞや行った“萱津の戦い”めぐりをご紹介~。
“萱津の戦い”は1552年に起きた 清洲織田氏と織田信長の氏族争いです。
ちなみにこの戦が前田利家の初陣だそうですよー。
まあ、又左の話は置いといて。
珍しく歴史の話もしようかな。
尾張国の守護は斯波氏なんですけど、いろいろあって守護代の『織田 信安』に擁立されてました。
織田氏はいっぱいいるので分かりやすく『清洲織田 信安』とします。
(守護代はもう1家あるんだけど、今回はスルー)
清洲織田氏に仕えていた3つの織田氏のひとつが織田信長の父『織田 信秀』です。
役職名?で弾正忠家というそうですが、面倒なのでこの家を織田氏とします。
織田氏の簡易家系図(萱津の戦い 時代)
(家系図描くの、すんごく久しぶりだなぁ)
清洲織田氏の下で戦で活躍したりして、メキメキと力をつけた『織田信秀』
当然、主君の『清洲織田信友』はイライラ
1551年に信秀が病死すると『清洲織田信友』は信長の弟『織田信行』を支持したため、
信長と『清洲織田信安』の関係はギクシャクになりました。
(あ。信行を家系図に入れるの忘れてる・・・)
といっても清洲織田氏の実権は重臣の『坂井大膳』が握ってたようです。
んじゃま、とりあえず、その清洲織田氏の居城 “清洲城”をご紹介~。
文献には“清須”とも“清洲”とも書かれていますが、現代は“清須市”です。
(物産センター?の展示物に記載してありますので、来訪されたときはぜひご覧ください~)
清洲古城跡
『想像図の説明書 要約』
・信長公時代の清洲城は中世守護の館をベースにしてたと考えられる
・館の周りに堀や土塁、土塀が巡らされ、要所には櫓が建てられていたと思われる
本丸土塁が残ってるってことなんですが、この石碑の後ろのかなぁ?
「丸の内駅」の近くに「清洲城土居跡」の石碑付で土塁が残ってるそうです。
外郭ラインがこんなところまであったんですねぇ!
(萱津の戦いのときの総構えの土塁ではないと思いますが)
その土塁が最外郭なら、丸の内駅は丸の内じゃなくてギリギリ丸の外ですけどね
ジオラマ
ちょいと話は逸れますが、古城石碑の奥に見えてる灯篭にご注目~
織部式灯篭
ちょっと変わった形してますよね
脚の部分がこけしみたいで、根本は何か彫られてます。
織部式灯篭と言うようですが、古田織部が考案した証拠はないらしいです。
清洲城にある灯篭は分かりにくいですが、
中には根元に銅像や十字架が彫られているものもあり、
その像にキリスト教の人が祈ったことから“キリシタン灯篭”と呼ぶ人もいるです。
これが古田織部の考案なのか、キリスタン灯篭なのかは、さておき、
信長さんとは関係ないんだから、他のトコにおいてほしかったなー
観光センター(?)の前に積んである石垣
現存石垣だそうですが、全く萌えませんでした
模擬天守(1989年造)
石垣の色が途中から違うけど、これは雨にあたるかあたらないかの違いかな。
上の発掘された石垣とはずいぶん石の種類が違いますねぇ
現存石垣じゃなくて、復元石垣・・・いや模擬石垣?
ともあれ、まったく関係ない石材を使っているようですね。
ですが、城内のビデオは「そのとき歴史が動いた」の松平定知さんナレーションで、
小和田哲男先生監修という豪華なもの
あとスポーツ新聞的なカンジで歴史の事件を新聞記事にしたものが面白かったです
(ひとりで見るより歴史仲間と見ると楽しいかと)
足軽が石を落とそうとしてますが・・・
それ、どう見ても石落としの穴より石のほうが大きいから!
つい最近、信長さんのお隣に移された濃姫(帰蝶)さん。
公家の置き眉仕様になってますやん
信長さんは桶狭間の戦いに出陣されるときの像らしいので、27歳ですな。
(濃姫は1つ年下なので26歳になりますね)
桶狭間古戦場にいる信長さんよりこっちの信長さんの像のほうが好きだな~。
今回はここまで
次回はコチラ