【散歩】たみ散歩「東京・中野坂上」Vol.43 大小多くの神社仏閣がある由緒ある街を散策する!⑥ | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【散歩】たみ散歩「東京・中野坂上」Vol.43 大小多くの神社仏閣がある由緒ある街を散策する!⑥

プログラミング情報まとめサイト「プロマリ」を更新しました。新しい情報収集をしたい皆様、プログラミング学習者、エンジニアの方ご参考にされて下さい。

 

引き続き、丸ノ内線と都営大江戸線の二路線が乗り入れる新宿へのアクセスが非常に便利な街「中野坂上」を散策致します(前回の記事はこちら)。

 

 


中野区でも屈指の広大な寺院で、千年近くの歴史を誇る古刹「宝仙寺」を散策したいと思います。



宝仙寺に入るとすぐ左手に「三十塔」が見えます。



この三重塔は、江戸六塔の一つに数えられます。戦災で焼ける前までは寛永年間(17世紀前半~中葉)建立の三重塔が別の場所(中野区立第十中学校校庭)にあったそうです。

ちなみに江戸六塔は、江戸時代に建立された江戸の仏塔。寛永寺(現存)、池上本門寺(現存)、芝増上寺(東京大空襲で焼失)、浅草寺(東京大空襲で焼失、戦後コンクリート造で位置を変えて再建)、谷中天王寺(放火により焼失)の5つの五重塔に宝仙寺の三重塔(東京大空襲で焼失後、飛鳥様式で再建)を加えた全6塔のことです。

宝仙寺の敷地内に「中野街役場跡」を発見しました。



昔は宝仙寺の敷地内に役場があったんですねぇ。



この宝仙寺は、寛治年間、源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれました。寺領は青梅街道付近から現在の阿佐ヶ谷駅付近にまで及んだといいますから大変な広さです。

「臼塚」



供養のため噴水として積み上げた石臼、頂上のものは昔し甘酒をすったものとされます。

中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていたました。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになったそうです。

その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていきました。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養したとされます。(社団法人中野法人会 説明版より)

三重塔の西側には堀江家の墓所がございます。



この墓地は代々宝仙寺の檀家総代をされていた堀江家のものです。堀江家は歴代の当主が中野村の名主をつとめ中野とその近郷の指導者として活躍されました。堀江家がはたした功績によって中野村はしだいに発展し、その事績は明治以後にまで続きます。この発展が現在の中野区の繁栄の礎となったといわれます。しかし堀江家は第十六代堀江恭一氏を最後に途絶えてしまいました。

「堀江家の第一墓所」



堀江家の長い年代にわたる村政及び幕府との関係を記した史料は、現在「堀江家文書」として首都大学東京に移管され、保管・研究されています。(宝仙寺HP 引用)

こちらは「御影堂(みえどう)」です。



御影堂とは、弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂です。このお堂に安置してある日輪弘法大師像は、脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この技法でこのような大きな佛像は壹千年以上も絶えて作られていなかったそうです。この弘法大師像は座像で高さは後背まで入れて約三メートルもございます。

そしてこちらが宝仙寺の「本堂」です。



鎌倉期の不動明王を中心に五大明王像が安置されています。

宝仙寺の山号は明王山(みょうおうざん)。宝仙寺は、同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺となり、本尊は鎌倉時代には秘仏になりました。室町時代になり、現在の位置に移転した(1429年)と伝えられます。江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展しました。また、当寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあったそうです。また将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用されたとされます。

この宝仙寺、著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも有名な寺院でもあります。また、節分の僧兵行列も趣き深いとされます。

宝仙寺のお隣には「やままさ醤油醸造所のレンガ塀」がございました。



こモニュメントは、明治初期創業のやままさ醤油醸造所のレンガ塀の北側一部を移設したものです。建造は、1889年(明治32年)と推定されます。中野での初期洋風レンガ構造物をいわれている浅田銀行本店を手掛けた、中野在住の棟梁と弟子達によって醸造所の蔵とともに築かれました。



石灰、海藻の「つのまた」、砂などで固める日本の伝統的なしっくい壁の技術とフランス積と言われるレンガ積み工法で造られています。当時、レンガ塀の築かれた青梅街道沿いは、中野の商工業の中心地として賑わっていました。また、ミソ、醤油の醸造は、蕎麦粉製造と共に中野の代表的な地場産業でした。



こうして歩いてみると色々と中野の歴史探索ができて面白いです。中野は、ミソ、醤油の醸造や蕎麦粉製造も盛んだったんですね。



「さんかく公園」



子連れのパパさんがいます。小生ももうすぐ公園デビューですかね。

 



さらにここから「中野区立宮前公園」方面に歩いていきます。

お次は「【散歩】たみ散歩「東京・中野坂上」Vol.43 大小多くの神社仏閣がある由緒ある街を散策する!⑦」をお届けしますのでお楽しみに!

 

 

written by たみと