【散歩】たみ散歩「京都・近鉄丹波橋」Vol.39 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!④ | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【散歩】たみ散歩「京都・近鉄丹波橋」Vol.39 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!④

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※プロマリを更新しました。プログラミングやニュース記事を纏めていますので、是非ご覧になって頂けましたら幸いです。

 

引き続き、歴史的な建造物が多く見られる京都伏見区の「近鉄丹波橋」を散策します(前回の記事はこちら)。


桓武天皇の柏原陵(かしわばらのみささぎ)を歩きます。宮内庁からのお達し。



日本において「陵墓(りょうぼ)」とは、皇室の墳墓の総称。ちなみに、天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を「陵(みささぎ)」、その他の皇族である皇子や皇女を葬る所を「墓」といいます。



宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しているので皆様が住んでいる県にも、陵墓が存在するはず。

なんせとにかく広い!!



「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」とあって、広大な陵域を占め、永世不除の近陵として歴朝の厚く崇敬するところであったそうです。

着きました。「桓武天皇 柏原陵」。



柏原陵には入れませんので、外から陵を写真撮影。



ひっそりと佇む桓武天皇柏原陵。『日本後紀』によると、陵所ははじめ山城国葛野郡宇多野の地に定められましたが、災異が相ついだのでその地をさけ、大同元年(806年)4月7日同国紀伊郡の柏原山陵に葬ったとされますが、『類聚国史』によると、さらにこの年10月11日に柏原陵に改葬したんだそう。



桓武天皇は、光仁天皇と渡来系氏族出身・高野新笠(たかののにいがさ)の子として誕生しました。光仁天皇即位以前は山部王と称され、当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられたそうです。



桓武天皇と言えば、皆様何を思い浮かべます?前述した通り、平城京から長岡京、さらには平安京に都を移すという二度の遷都も有名だけれども、蝦夷(えみし)との戦いも有名です。日本史にも登場する蝦夷征討(えみしせいとう)は記憶にあるという方もおられるのではないでしょうか。



桓武天皇は、東北部から東北地方にかけて住み、朝廷に服従していなかった蝦夷(えみし)と呼ばれる人々を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行したことでも有名です。蝦夷(えみし)は,大和(やまと)政権の時代から、東北地方で大きな勢力を持っており、言葉や風習も違って,朝廷から異民族と見られていたようです。



桓武天皇から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)が大軍を率いて東北地方に遠征しました。蝦夷は、アテルイなどの指導者を中心にはげしく応戦しましたが,坂上田村麻呂によっておさえられ、こうして朝廷が支配する地域は北へ広がっていくわけであります。



あ、どこへ行っているか申し上げてなかったですね。



これから豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地へ向かいます。陵の敷地の桃山には、後程ご紹介する明治天皇の陵(みささぎ)である伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)もあります。そしてすぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)も隣接しています。


今、跡地といいましたが実際には復元された1500年代の城の模擬天守、伏見桃山城が存在しています。



そう今回のたみ散歩は見所満載のツアーと自負していいかと。いやいつも見所満載だと自分では思ってますよ(笑)。ただ、不思議ちゃんスポットが多いのも事実ですが・・・。

 

この後、この伏見桃山城がある運動公園をぶらぶらと散策してみます。



次回は、いよいよ伏見のシンボルでもある伏見桃山城を散策します。



今日はここでお終いです。お次は、「【散歩】たみ散歩「京都・近鉄丹波橋」Vol.39 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!⑤」をお届けしますので、お楽しみに!

written by たみと@いつでもどこでも働ける、リモートワーカーという生き方