【散歩】たみ散歩「長野・伊那市駅」Vo.35 伊那市の中心駅として機能する街並みを散策!② | たみ散歩~いつでもどこでも働ける、フリーランスという生き方~

【散歩】たみ散歩「長野・伊那市駅」Vo.35 伊那市の中心駅として機能する街並みを散策!②

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引き続き、伊那市の中心駅として機能し、商店街も活気がある魅力盛りだくさんの街「伊那市駅」をご紹介いたします(前回の記事はこちら)。

小沢川を渡ります。



井上井月種田山頭火との出会いが描かかれていました。なになに。



山頭火はついにやってきた。昭和14年5月3日であった。昭和9年から数えて丸6年ぶりの井月墓参の実現であった。


前回は木曽から峠越しの伊那谷入りで、藤村の『夜明け前』の舞台、馬籠をも訪ねることが出来なかった。飯田での急性肺炎に懲りてか、豊橋から飯田線利用での伊那入りであった。山頭火は井月の生き方に心酔しており、「いつも考えるのは、井月のことである。彼の酒好きや最期のことである」と日記に残している。

この度は、各地の旧友知己の温情にすがっての旅であり、今回は目的をはっきり井月墓参に絞っていたのであった。墓参が終った夜、伊那の予地から木曽へと帰っている。さて、井月と山頭火が実際に出会ったことは無いが、もし出会っていたら、二人とも無類の酒好きであったので、「千両、千両」と酒を酌み交わしたであろう。

明日知らぬ身の楽しみや花に酒 井月

寝ころべば信濃の空の深いかな 山頭火

果てしなき喉の渇きに越百の水 by たみと

さて一句詠んだところで、旅の続きと行きましょう。



夜は何を飲もうぜよ。「いろはにほへと 伊那駅前店



夜の伊那も探索したいと思います。だいたい飲むところは渋いお店がいつも必然的に多くはなります。



伊那名物ローメンの垂れ幕がありました。もうばれちゃいましたね。お昼はその伊那名物ローメンを味わってみますよ。

がブリチキン。



都内にも店舗がありますが、ここ伊那にもお店がございました。都内でも食べれるものは地方では食べないと決めているんです。



これはよかストリートがあるじゃなかですか。



最近いろいろと地方に行くもんで方言がごちゃごちゃになってきました。この国道361号をまっすぐ行くと、高遠町に行きます。



「入船」の交差点。ここから天竜川を渡りますがその前に。



「天竜川舟着場跡」



漂泊の俳人井月は天竜川上流の通舟を「春風に待つ間程なき白帆哉」と歌い残しました。



江戸初期、角倉了以により川筋の見立てが行われたが、天竜上流では、通船が就航したのは文政の頃で、同六年神子柴の孫市、木の下の弥四郎等が通船を公認されたが、 木曽十ーケ宿、中馬業者等からの故障のために就航は難航しました。



明治四年伊那県の調べでは伊那谷に、五十般の船があった。同五年、平野村の尾沢辰之助等により岡谷ー掛塚 間の通船が行われたといいます。



要約すると、天竜川ではたびたびの洪水があったため、通船を定期的に行うのも非常に難航し、ついには途絶えたと書かれています。それがこの天竜川。



普段は穏やかな川ですが、流域は急峻な地形のため古くから「暴れ川」「暴れ天竜」として知られています。



赤石山脈・木曽山脈という日本の屋根に挟まれながら流れる天竜川水系は、その急峻な地形ゆえに古来より水害に悩まされた。古くは701年に天竜川最古の水害記録が残されています。特に伊那谷の出口に当たる天竜峡付近は川幅が急激に狭隘となることから、伊那谷は特に洪水の被害が顕著でありました。天竜川最大の洪水は1715年の「未(ひつじ)満水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまだったと記録に残されています。これに対し、流域の住民は様々な方法で水害に対処していたようです。(Wikipediaより)

今日はここでお終いです。お次は「【散歩】たみ散歩「長野・伊那市駅」Vo.35 伊那市の中心駅として機能する街並みを散策!③」をお届けしますのでお楽しみに!


written by たみと@プロマリ