苗字と家紋 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “元来、姓名を書くとき、姓は大きく、名は小さく書くべきである。

 姓は祖先を現わし、名は自分を現わすのであるから、そうあるが当然である。(昭和五年五月)”

 

(加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 月鏡」より)

 

 “我が日本国は古来、祖先の遺風を尊重し、祖霊を祭祀し、祖先の名声を汚すまいと子孫は日夜謹慎し、またその家の名を伝えんとする淳良な風習をもっている。

 ゆえに、おのおのその家の印(しるし)の紋所(もんどころ)をもっとも尊重し、屋根瓦に、提灯に、その他の器具等にも家の紋を付けている。とくに礼服として、羽織や晴れ着に三つ紋、五つ紋等を染め抜いて、家系を表示する国の風習が、いまにも行われている。

 さて、この紋については源平籐橘その他の家々、いずれも時の陛下より賜りしものもあり、中世以降は時の宰相、または大名等よりもらって家の紋所としたのもあるが、紋の外郭を〇をもって囲んだのは、一部分を除いて、たいていは主家より許されたとか、別家したとかの印であって、直系に対する傍系、または臣家の証示である。

 しかし近古以来はその制も乱れて、各自心のままに訂正したのも多いようだから、いちがいに、そう決定するわけにもゆかない。(昭和六年四月)”

 

(加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 玉鏡」より)

 

 “大国主の系統で残っているのは、千家丈である。日本は矢張り系統を大切にしなければならぬ。(昭和十八年一月四日)”

 

 “昔の通り世襲になっても、不徳の者は出て来ぬが、たまに出る。其の時は日本は家を本にするから、霊統をたてて養子で家を継ぐから心配はない。(昭和十九年二月二十日)”

 

(木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

*この「霊統」についてですが、出口聖師は、「子供のいない夫婦が養子をもらった場合、たとえ血がつながっていなくとも、霊においては本当の親子であり、そういう子が来るようになっている」と言われています。

 

*古い信者さんに聞いた話ですが、出口ナオ開祖は、祭典に紋付の着物を着て出席するのは、先祖を世に出すということでもあり、祖霊様はたいへんお喜びになる、と言われたそうです。今は和服を着る機会はあまりありませんが、Amazonなどで、家紋のピンバッジやネクタイピン、キーホルダーやシール、スタンプなどが各種販売されています。現在、「鬼滅の刃」という時代劇のアニメが人気ですが、子供たちに自分の家の家紋のシールなどのグッズをプレゼントすると喜んでくれるでしょうし、「家系」や「ご先祖様」についてより意識してくれ、家族のきずなも深まるのではないかと思います。

 

*現在、「夫婦別姓」について議論されていますが、私には、夫婦や親子が異なる名字を持つようになることが良いことだとは思えません。そもそも出口王仁三郎聖師は、上田家の長男でありながら出口家へ婿養子に行かれましたし、女性側の姓を名乗ることが禁止されているわけでも、それが不名誉なこととされているわけでもありません。夫婦別姓に賛成する人達は、女性の人権云々と言っているようですが、現在進行中の中国でのウイグル人やチベット人の女性に対する性暴力、ジェノサイドには沈黙したままで、結局、彼らは意図的に日本の国を壊そうとしているだけのような気がしてなりません。女性の社会進出には賛成ですが、目指されるべきは仕事と家庭の両立であって、家庭を切り捨てることではないはずです。少子化が深刻な問題となっている現在、太古の母系制社会がそうであったように、女性にしかない妊娠・出産・育児の能力が、男性の労働力(食糧調達能力)、戦闘力に対し、優越しつつあるにもかかわらず、ジェンダー平等を主張する人達は、女性を男性化してしまうことを平等だと勘違いしています。むしろそれこそが私には女性を引き下げ、否定することとしか思えませんし、行き着く先は人口減少による日本という国家の消滅です。

 

 “仏典でもバイブルでも女性を卑しめて書いています。しかし、大本では男女同権をむかしから説いています。ことに大本開祖は女性であり、また歴代の教主も『お世継ぎは代々肉体が女であるぞよ』とお筆先で定められています。しかし夫婦同権とは言っていない。家庭では夫唱婦随が原則だと説かれています。”

 

(「おほもと」昭和48年5月号 三浦一郎『大本の特異性(一)』より)

 

 “「男と女の見分けがつかぬ時が来る。男性は男性、女性は女性とかんながらにそのありかたがそなわっているのだが、それが中性的になって区別がつかなくなる。それが末世相だ」

 

 第二次世界大戦前から、出口聖師によってたびたび聞かされた言葉である。当時は男女の中性化なんて理解できなかった。ところが大戦中に服装がやや似てきたので、こうした服装のことかと思った。しかし終戦後の社会の様相が一変すると、女性のあり方が違って来た。女学生の日常会話に「君、僕」の言葉が流行し、「男のするさまを女もするなり」となった。男が男らしさを失ったのか、女が男の世界に進出したのか、それとも男女同権の思想が性別を無視して、しいたげられていた女性が解放の空気におしあげられて男よりも強くなったのか。

 出口聖師は男女の同権は明治の時代から主張されていた。実にその時代から云えば進歩主義者であって、社会には容れられないものであった。しかし同権は同権でも、性別を同一視されたものではない。性別のあるところ、かんながらに天職使命のあることを主張されたのである。そのことについて詳細に知りたいと尋ねると最後には必ず、

 

 「創造の真因に基ずくのじゃ」

 

と創造の始めよりの真と愛の原因から説明された。同権の意味も、真と善の価値比重の同一であるところから説かれるのであって、近代思想に基ずくものではなかった

 

 「思想というものが創造原理に基ずくものであれば、その思想は永遠の生命があるが、時代的に人間が考え出したものであれば、それは一時的である。またその思想が如何にも真理であるように見えていても神意に反しているものなら宗教者は排除しなくてはならない」

 

と云っておられたところに出口聖師の明確な批判の根拠があった。”

 

(「おほもと」昭和32年8月号 大国以都雄『出口聖師と現代社会』より)

 

・「『天下一家』の大家族精神を発揚し、これを世界に光被すべし」

 

 “欧米の思想制度は概して唯物的個人主義より出発している。故に其の家庭も単なる個人主義的家庭制度であって、我が国のそれとは根本に於てその精神を異にしてゐる。彼の外来思想は、我が国の家庭にも浸潤し、日本本来の美風たる家族精神を漸次破壊しつつある。更に我が思想界を見ても、大日本精神に悖る雑多の思想に惑乱せられ、恰も封建時のそれに似て、さながら群雄割拠の姿である。かかる状態は決して日本神国本来の姿ではない。

 近来、『皇道に還れ』の真剣なる叫びが盛んに揚がって来たことは、寔(まこと)に歓ぶべき傾向である。皇道は神に基づく天地惟神(かむながら)の大道であって、神に目覚めずして皇道の真面目(しんめんぼく)を発揮することは不可能である。

 天地惟神の大道たる皇道の本義を明らかにして、天下一家の大家族精神を発揚し、之を世界に光被すべき皇国民たる尊き使命的天職である。”(『大家族精神趣旨』より)

 

 “出口聖師は「霊界物語」に次のように書いてゐられる。

 『今でこそ日本と云ひ支那と云ひロシヤと云ひ種々(いろいろ)に国境(くにざかい)が区画されてゐるが、国常立尊御神政時代は、日本とか、外国とかいふよやうな差別は全くなかった』

 われわれは先づ天下一家の春を招来せむとする建国の大精神に還り、日本人としての使命に向かって邁進せねばならぬ。”(『行詰れる世界の現状に光を与へるものは何』より)

 

(「瑞祥新聞」昭和9年3月号より)

 

・女性への性暴力について 

 

 “サンデーによると、

 「部族社会におけるレイプは、人間どうしの暴力、男性の優越性、性による分離と同様、文化形態の一部をなしている。ムンドゥルク族に関してマーフィスが述べているように、レイプの起こりやすい社会では「男性は……ペニスを使って女性を支配する」。何が原因でレイプの起こりやすい文化形態ができあがるのかという疑問は残る。かなりの証拠からすると、このような文化は、食料の枯渇や移住その他の要因のため、女性の生殖能力より男性の調達能力のほうが重視されたという歴史をもつ社会に生じることが多い。」

 

 サンデーによると、人間が周囲の環境と調和している場合はふつうレイプは生じない。

 「重要なのは、レイプは生物的本能として人間に備わっているものではなく、社会的に身に着いてゆくものだということである。レイプは男性の本性に最初から備わっているものではなく、暴力に訴える習慣のついた男性が社会的自己を表現するときの手段なのである。成熟した女性の美や、生命の神聖さを尊重することに慣れている男性は、女性に暴行しない。自然を聖なるものと見る社会ではレイプがほんの稀にしか生じない、という事実は注目に値する。”

 

(ティモシー・ベイネケ「レイプ・男からの発言」ちくま文庫より)

 

 “女神崇拝の考え方が保たれている社会では、強姦は―― 夫婦間であろうとなかろうと―― まず起こらない。女性のセクシャリティーはほぼ十全に開発されている。(バーバラ・ウォーカー『女性のための神話と秘密の百科』(一九八三年)”

 

 “西洋の宗教が身体、自然、そしてこの世界から疎外されるにしたがい、女たちは男を生み出す文化に比べてより肉欲的で、世俗的だとみなされたために貶められてきた。……女の身体とその力への侮辱は、西洋文明における出産の捉え方により明白に表れている。……女性解放運動は、女性が自分の身体をコントロールし、自らの進退に誇りを持つことが必要であると主張し、自然出産と自宅出産の唱道者を支援してきた。

 「女神」というシンボルは、こうした女の身体とその機能に名を与え、取り戻すプロセスの助けとなる。古代世界において、あるいは現代の女たちの間でも、女神というシンボルは自然と人間世界における出産と死、再生のプロセスを表すものである。女性の身体は、生命と死のサイクルを直接的に表現あるいは具体化したものとみなされている。(キャロル・P・クライスト〈ヘレシーズ〉誌 一九七八年春季号)”

 

(スーザン・グリフィン「性の神話を超えて 脱レイプ社会の論理」講談社選書メチエより)

*あと、家紋には、母から娘、そして孫娘へと伝えられる「女紋(母系紋)」というのもあります。

 

・エドガー・ケイシー・リーディングより

 

 「人類を同胞とする思想、神を父とする思想の上に、民主主義であれ、いかなる名前も置いてはならない!」(3976-24)

 

 「社会生活の中では、家庭の調和を理想として堅持せよ。なぜなら人生の諸問題は家庭から生じるからである。」(1205-1)

 

 「天使が訪れたくなるような、天使すら客人として招かれることを望むような家庭や住まいを作りなさい。」(480-20)

 

(日本エドガー・ケイシー・センター「珠玉のリーディング」より)

*「珠玉のリーディング」は、日本エドガー・ケイシーセンターに登録すると、毎日無料で配信されます。