「自力更生」  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「ワガ政府ニハ救済スル能力ガナイ、ヨロシク自力デ更生スベシ」 高橋是清

 

 “「自力更生」という言葉を初めて耳にしたのは、中ソ論争のときだ。「社会主義の大家族」の美名のもとに、ソ連が小国に従属的な「国際分業」を強いていることに対して中国側が批判して用いた言葉である。民族は自立すべきだというその趣旨には共感したものの、「更生」という悪い人が立ち直るような言葉をなぜ用いるのか、理解に苦しんだことがあった。

 あとになって、石川三四郎の伝記を書いたときに資料を調べていて疑問が解けた。この言葉は、昭和の農村恐慌のときの高橋是清の言葉なのである。このとき、農民救済を叫ぶ野党に対して、高橋蔵相は「わが政府には彼らを救済する能力がない。農民はよろしく自力で更生すべし」とやったのであった。農民運動はみな憤激し、下村寅太郎なども立派な糾弾の文章を残している。ところが石川は違っていた。「明治以来、政府からこれだけ率直な言葉を聞いたことはなかった。すばらしいことだ。彼らが投げ出したのだから、今こそ自力で更生しようではないか」と書いた。

 石川の言葉が、飢えに苦しむ農民たちにどうひびいたかはわからない。政府の責任放棄を弁護しただけではないか、という非難も当然浴びたことだろう。

 しかし、思想的にはこれは残る言葉だった。人間が国家という病を克服するには、国家に対して権利を要求するだけでなく、人間は国家なしに生きることも可能であると主張する足場を、一方で確保しておかねばならない。石川は中国革命同盟会の人たちの身許引き受け人だったし、この言葉がこうしたニュアンスをもって中国に伝わったことは、想像に難くないのである。中国でも「自力更生」の思潮は、民族自立だけでなしに、文化大革命期の一部の左派に見られたように、「中華人民公社による共和国の止揚」というスローガンを生み出しさえして、毛沢東自身をさえびっくりさせたのだった。

 いま、国鉄が解体され、食管も空洞化し、福祉が大きく削られていこうという戦後体制の大転換期に、このことをもう一度考えて見るのはムダなことではないだろう。低成長期に入って一貫して政府・財界が追及してきたのは国家が過剰に膨れ上がったことの調整であり、「行革」である。それは、一方で不採算経済部門の縮小という経済的要求に、他方で軍事治安を主要な柱とした小さな、しかも強力な政府、行革と緊縮と強権という新保守主義の思潮に対応してきたのだが、これに対して労働側が「既得権を守れ」というところでしか対抗できなかったことによって、野党と労働組合は内部からも外部からも崩壊した。

 国鉄の場合、雇用確保だけにとらわれて、国鉄が百年かけて作り上げてきた真の国民的財産である人(熟練とノウハウと誇り)と土地と情報網をズタズタにする改革案に同意してしまったのである。次には農業の全面的切り捨てが日程にのぼってくるだろうが、これに対しても野党はなんら対応する論理を持っていない。

 新保守主義の福祉抑制論については、本誌ですでに繰り返し議論されてきた。一面から言えば、今日までの福祉の水準は市民・労働者の長い年月にわたる闘争の結果勝ち取られたものであって、そこから後退していこうとする政治の姿勢に対しては妥協することなく批判していかねばならない。

 しかし同時に、この新保守主義は高橋蔵相の責任放棄宣言にも等しいものであって、われわれは石川三四郎と同じように、よし、国家に依存せず更生してやろうではないか、と言ってみることが必要でもある。この二つの次元は矛盾するものではない。権利の主張だけでは絶対に国家の枠を超えることはできないし、かといって、主体形成が大事だからと政府の強権による社会の崩壊を放置してよいわけもない。

 われわれは「権力奪取」をして社会改造をしようなどと考えているのではなく、この社会の中に「もうひとつの道」を具体的に築こうとしているのだ、ということをはっきりと自覚してからもうずいぶん時間がたった。「もうひとつの道」は見えたとも言えるし、まだ何も形になっていないともいえる。社会のあらゆる領域での「まだ残存しえている自主的・自給的要素」と「これから作られようとしている自主的・自給的要素」を見つけだし、結びつけ、できるところからシステム化していくということがいま、求められているような気がする。”

 

(津村喬「気功2 癒しの人間学」(新泉社)より)

 

*津村喬氏(1948~2020)は関西気功協会及びNPO法人気功文化研究所の代表として、まだ気功がほとんど知られていないころから中国の高名な気功師たちと交流され、80年代以降の気功ブームに多大な貢献をされた方です。他にもエコロジー、先住民医療のネットワークづくりなど様々な活動をしておられました。ジャーナリストの高野孟氏の実弟でもあります。この本「気功2 癒しの人間学」は1990年に出版されたもので、「国鉄や食管が云々」などの話があるのはそのためです。

 

*ここで津村氏が言及されている石川三四郎(1876~1956)とは、キリスト教社会主義者であり、足尾鉱毒事件の田中正造とも行動を共にしていた人物で、さらにヨーロッパに渡り各国の知識人たちと交流し、知識のみならず幅広い視野を持っていた人物のようです。日本のアナーキズムの中心人物の一人ともされていますが、一方で昭和天皇への支持と共鳴を表明し、Wikipediaには、「デモクラシーを「土民生活」と翻訳し、独自の土民生活・土民思想を主張、大地に根差し、農民や協同組合による自治の生活や社会を理想としたが、権力と一線を画し下からの自治を重視した点において、農本主義とは異なるものだった。」ともあります。なかなか興味深い人物です。

 

*私は、「国家は病」だとは思いませんし、津村氏の左翼的な政治思想、社会分析に必ずしも同意するわけではありませんが(津村氏の思想からは「神」が感じられません)、それでも津村氏の視点はかなり鋭く、彼が発行しておられたニューズレター「脈脈」などは内容が非常に濃いものでしたし、「毛沢東の『体育論』」の論文などはかなりインパクトのあるものでした。ここで紹介させていただいたのは津村氏が書かれたエッセイ「自力更生の理念と現実」の一部ですが、この「自力更生」という言葉を、現在の新型コロナ禍の中でふと思い出しました。政府には「強制」ができず「要請」しかできないなど、外国に比べて日本の政府にはあまりにも権力がなかったことには驚きましたが、それにしても、政府のとる対応が泥縄式でどうしようもなく、マスコミもひたすら騒ぎ立てるばかりなのにはうんざりします。私はワクチンよりも治療薬の情報、重症から回復した人、亡くなられた人はそれぞれどのような治療を受けておられたのか、何を投与されていたのか、などを知りたいのですが、それらについてはまったく報道されませんし、そもそも、現在の感染拡大はGo toトラベルよりも、11月1日に入国制限を緩和したことが主要な原因であるとしか思えず、ネットでも多くの方々がそのことを指摘しておられたのに、その点についてマスコミの報道では一切触れられないのが不気味でした。先日見たテレビ番組では、台湾が入国制限、入国者(番組では「入境制限」「入境者」)の二週間の強制隔離を行い、現在まで死者を7人に抑えていることが報道されていましたが、「海外からの入国者が新たな感染を広めている」、「日本も入国制限、自主隔離ではなく強制隔離を行うべき」との話にはならず、これまでと同じく、国内の移動、外出の制限や、飲食店の時短要請などが呼びかけられただけでした。先週になってやっと政府が入国制限を発表し、ニュースでも伝えられましたが、もはや手遅れだと思います。また、欧米の数十分の一の感染率で医療崩壊するなどあり得ず、国民に感染防止のための行動を呼びかけるばかりでなく、それこそ政治主導で医療システムの歪みを正すべきなのに放置されたままです。もはや政府には国民のための政治を行う気がないのは明らかであり(能力はあるはずですが)、まともな野党も存在せずマスコミも信用できず、今こそ各人がはっきりと自立的した意識を持つことが必要なのかもしれません。もちろん、これは各自が単に自分の思う通りの行動をとるべしということではなく、内的な導き、本霊(直霊・直日)に基づく行動でなければなりません。皆がお互いに協力し合うことは必要ですが、これは決して政治的な活動に参加するとか、どこかの宗教団体に入らねばならないということではありません。判断を自分以外の誰にも委ねるべきではありません。ただ唯物的な精神のままでは、いずれは過激な政治運動に巻き込まれ、ひたすら批判のための批判、さらには破壊活動へと突き進んで行くことになってしまいます。今は各人が「霊性」について、より意識すべきときなのだと思います。

 

・北一輝(右翼思想家)と大本の関係 (聞き手 出口和明氏)

 

出口「2・26事件に関連して、第二次大本事件の前夜、北一輝が聖師を尋ねてきたことは良く知られているわけです。実は大正八年くらいから北一輝と大本が関係していたと聞いたのですが、その点はいかがですか。」

 

大国「北一輝はあちこち歩き回っていた。それで大本へちょっと来たことがあった。」

 

出口「第一次事件の前ですか。」

 

大国「ええ、彼は自分の主張することに賛成してくれるところを捜し歩いていたみたいだった。ところが聖師は、自己中心的な考え方はいかん、という態度を北一輝に対してとられたものだから、『王仁三郎は何も知らん奴だ』と言ってましたね。北一輝が初めて大本へ来たのは、亀岡・天恩郷を買い、小さなバラックを建て第一回目の夏期講座が開かれたころです。」

 

出口「大正九年八月のころですね。」

 

大国「ええ、その時に大正日日新聞社を買収することが決まったのですが、その時に北一輝がちょこっと顔を出したのです。」

 

出口「エ、そうだったんですか。初めて聞きます。そして北一輝は何をしに天恩郷へ来たのですか。」

 

大国「北一輝は、大正日日新聞社の買収については反対のようで、『そんなことをして何になるか。それよりも東京へ出て組織を作ってやらなくちゃだめだ。』と言っていましたね。彼は日本を改造すると言っていろいろとパンフレットを作っていて、それを私たちに見せたんです。彼は『誰にも話してくれるな』と固く言っていた。そのパンフを見て思ったんですが、北一輝の思想の中に〝神″というものがない。私たちは神を信じていますが、彼にはそういう気持ちがない。日本は神国だから神をもってこなければ、日本の改造はできないというのが私たちの考え方。ところが彼は『神よりは人力のほうが大切だ』という考え方、世界的思想を持ったものでないとダメだということです。彼は『神を基本として国家を改造するというけれど、王仁三郎の考え方は田舎もので学問のない考え方だ』と聖師を批判しましたね。私たちはバカらしくなって、『私たちは王仁三郎先生についていく』といってあまり相手にしなかった。

 その後、彼は大正日日新聞を経営するときにも尋ねてきた。彼は『国家改造法案』というやつですが、それを聖師に見せに来た。ちょうど聖師は出ておられた時だったので、その旨を伝えたところ、『これを読め。そして王仁三郎が帰ってきたらこれを渡せ』といって二冊置いて行きました。

 

出口「大正日日新聞社の本社へ尋ねてきたのですか」

 

大国「ええ。そして聖師が講演から帰ってこられて『北一輝が来てこのような本を置いていきましたが』といって見せた。その本を読まれた聖師は『あの改造法案には〝神″がない。ものが足らん。神のもとに改造されなきゃダメだ。人間の意識で改造するなどもってのほかだ。』と言っておられた。その後北一輝は九州で警察に捕まってしまった。彼は警察で、『知っていることは全部大本へ言ってある』と言ったために警察が大本を調べに来た。そして『国家改造法案』のパンフを押収されました。

〈中略〉

 夕方遅くになって(警察から)解放された私は、大正日日新聞社の本社へ帰りました。その時聖師は『あんまり接したらいかんでよ。ワシも思うのだが、あの人の考え方には過激なところがある。要するに国家を根底から潰してしまう考えだ。そういうことを今言っていたら大変なことになるぞ。あれにあまり関係するなよ。』と言われた。…〈後略〉」

 

 (「いづとみづ」№98 『大国美都雄氏に聞く 聖師ご入獄中の教団の混乱』より)

 

 “聖師のいわれている宗教心とは特別なものではない。

 

 「腹が減ると飯が食べたくなる。それは経験によって人間が修得するものでなく、生まれながらに神から与えられた本能である。この本能はただ肉体的方面に働くのみでなく、精神方面にも働くものである。即ち人間の精神が健全であると、物の正邪善悪は、丁度腹の中から空腹を訴えると同様に、心の中から私語(ささや)く声によって判断する事ができるものである」

 

 この「心の中からささやく声」は精神的本能の声である。これを本霊(本守護神)の声といってもよい。この本霊を良心、超越意識などという言葉で表現されていることもある。

 この精神的本能を目ざめしめ、活力を与えてその力を発揮せしめることが宗教の本来の使命である。ところが、精神的本能……良心がマヒ状態におちいっているのが今の世の中である。そしてこの良心の発動には「個人的良心」ばかりでなく「社会的良心」の発動が大切であって、それなくして「社会正義」が実現されるものでは決してないのである。”

 

(「神の國」昭和29年7月号 櫻井重雄『精神的本能の覚醒』より)