「そのままでいい」のか? | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “臨済宗の開祖、臨済義玄の語録「臨済録」においては、「不是娘生下便会」(母親から生まれたままでただちに会得したわけではない)という文がある。臨済宗方広寺派管長(一九二七~一九四六、一九五二~一九五九)、臨済宗管長(一九四一~一九四二)を務めた足利紫山(柴山恵温。一八五九~一九五九)は、戦中から筆記され戦後に刊行された「臨済録提唱」において、この文について次のように述べている。

 

 今日はなんぞといふと、「その儘(まま)でよい、その儘でよい」といふような恂(まことに)に浅墓(あさはか)なことになり果ててしまって、「公案ぢゃなんの、そんなことに頓着せんがよい。この儘でよいのぢゃ。行持即仏法、今日の上でもう仏法は尽きてゐる」などと済まし込んでゐる宗旨が、どうかすると多いやうぢゃ。そんなものではない。この臨済の如く命迄捨てて始めて分かった大道ぢゃ。黄檗のところで六十棒どやされたが、大愚のところで始めてカラッと分かった。それから又破夏(はげ)の因縁といふものがある。後に又黄檗のところへ行って、叩き出されてしまうたが、そこで始めて真の境地を得たのぢゃ。ぢゃから、親から生みつけられたその儘でよいなどと、今日済ましてゐる宗旨があるが、飛んでもない間違いであるぞ。娘生下(にやうしょうか)にして便(すなは)ち会するものではない。(足利紫山〔1954:284〕。ふりがなを追加)

 

 ここで言われている「宗旨」とは、明らかに近現代の曹洞宗において悟り体験を批判した宗学者たちの主張を指している。「行持即仏法」とは、近現代の曹洞宗においてしばしば説かれている「威儀即仏法」である。戦後になって、在来の大乗仏教諸宗においては出家者が「そのままでいい」「ありのままでいい」と主張することが増えたが、そのような主張は戦前の曹洞宗において悟り体験を批判した宗学者たちに始まる。

 要するに、近現代の曹洞宗における宗学者たちの悟り体験批判は「そのままでいい」「ありのままでいい」という現世肯定に繋がりやすいのである。曹洞宗の寺の息子をモデルにした映画「ファンシィダンス」(一九八九)において、本木雅弘演ずる主人公が女性関係を咎められ「あるがままなり」と言い放っていたのは象徴的である。

 「そのままでいい」「あるのままでいい」現世肯定は、前近代まで伝統的な仏教において保持されてきた現世否定と、本質的に異なっている。近現代の曹洞宗における宗学者たちの悟り体験批判は、仏教が従来果たしてきた、現世に拮抗する役割を低下させ、仏教を、単に現世において楽に生きるための道具へと堕落させてしまう危険性をはらんでいる。悟り体験を批判した宗学者たちが、良い意味において常識人であり、仏教から常識外れな悟り体験を取り除いて、仏教を現世の常識のうちに収めようとしていたことはわからなくもないが、そこまで現世否定を欠く仏教を、はたして仏教と呼んでよいか否かは、容易には判定できない問題である。”

 

      (大竹晋「「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々」(新潮選書)より)

 

*確かに、ストレスに苦しみ精神的に追い込まれている人たちには、「がんばらなくていい」と声をかけてあげるのが良いのでしょうが、それはむしろ「がんばるべき対象」が間違っているから苦しむことになるのではないかという気がします。エドガー・ケイシーは、「まず汝の理想を定めよ」と、自分の理想とは何なのか、単に頭で考えるだけではなく、紙に書いてその理想をはっきりと自覚するよう勧めています。努力すればするほど本来の自分の理想と離れて行くのなら、そのような努力はさっさと放棄せねばなりませんが、努力すればするほど自分の理想に近づいて行くことが実感できるのであれば、いかに苦しくても耐え忍ぶことができるはずです。仏教では、人として生まれ、さらに仏法を聴聞することができるのは稀有のことであり、この機会を無駄にしてはならない、と説かれており、私は努力する事すらも否定してしまうような主張にはとても賛同できません。エドガー・ケイシーは、「人は歩くことを学ぶように、瞑想することを学ばなければならない」(281-41)とも語っていますが、必要なのは、日常の生活に加えて、瞑想などの霊性の修行をも併せて実践することだと思います。

 

 

・スワミ・ブラマーナンダ(ラーマ・クリシュナの高弟)

 

 “マハラージ(ブラマーナンダ)が無私の奉仕、人の内なる神に仕える、という理想を礼拝の一形式と考えていたことは事実であるが、かれは同時に、瞑想を実習しないで働きを礼拝行として行うのは非常に難しいことであり、また、どれほど無私の行為であろうとも、働くことだけによってエゴを消滅させることは全く不可能である、ということを指摘した。われわれは働かなければならない。しかしわれわれは同時に、瞑想によってエゴを神の中にとけ込ませるように努力しなければならないのである。”

 

   (「永遠の伴侶 スワミ・ブラマーナンダの生涯と教え」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

・ラーマ・クリシュナの言葉

 

 “「私が彼(神)である‥‥‥」と自負することは健全な態度ではない。肉体的自我の意識を乗り越える前にそうした理想をいだくものには、大きな害が生じ、その進歩は遅れ、少しずつ、彼は下に引き下ろされる。彼は他の人々をだまし、また自分自身をだます。自分がどんなに悲惨な状態にあるかを全く知らないうちに‥‥‥”

 

     (「ロマン・ロラン全集 15 生けるインドの神秘と行動」(みすず書房)より)

 

*「そのままでいい」「ありのままでいい」「私たちは既に悟っているのですよ」などと言う人たちは、ここでラーマ・クリシュナが批判している「私は神(ブラフマン)である」と自負している連中と同じだと思います。

 

 

・真の自我(アートマン)の体験 〔ラマナ・マハリシ〕

 

 “「『私』の感覚は個人、つまり肉体と頭脳についています」

とマハーリシーは静かに答える。「人がはじめてかれの真の自己を知ると、ある別のものがかれの存在の奥底から生まれてきて彼を占領します。そのあるものは、心の背後にあります。それは無限で、神聖で、不滅です。ある人々はそれを天の王国と呼び、またある人々は魂とかニルヴァーナとか呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼んでいます。あなた方は好きな名で呼んだらよいでしょう。このことが起こると、人は本当に自分を失ったのではなく、むしろかれは自己を発見したのです」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、あのガリラヤを放浪した教師が語った忘れがたい言葉が私の心に閃く。実に多くの善良な者どもを当惑させた言葉である。生命を得んと欲する者はそれを失い、生命を失う者はそれを得ん。

何とふしぎにこの二つの文句の似ていることか!しかしこのインドの聖者は、彼自身の非キリスト教的な方法で、極度に難しく、またなじみ難く思われる心理学的な道を通って、この思想に到達したのである。”(第9章「聖なるかがり火の山」P164)

 

 “しかし、どのようにして、量り知れぬ年を経た思考作用の専制から自分を離すのか。私は、マハーリシーが決して思うことを強いて止めようと努力せよ、とすすめたことがないのを思い出す。「思いをその起源までたどって行け、真の自己が自らを現すのを見まもれ。そのとき、あなたの思いはおのずから消えるであろう」というのが、かれが繰り返し与えた助言である。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P317)

 

 “ついにそのことが起こる。思いは、吹き消されたろうそくのように消えてしまう。知性はそれの真の基礎のうちに引っ込んでしまう――つまり意識が、思考に邪魔されないではたらくのである。私は、自分が少し前から感づいていたもの、すなわちマハーリシーが確信をもって断言していたことを、認識する。心は、超越的な源泉から発するのである。頭脳はちょうど熟睡中のように完全に停止状態に変わったが、意識はいささかも失われてはいない。私は完全に落ち着いているし、自分が誰であっていま何が起こりつつあるかということを十分に知っている。しかし、私の自覚は、別の個人、というせまい限定の中から引き出された。それは、荘厳に一切を抱擁するあるものに変わってしまったのである。自我は尚存在する。しかしそれは、変化した、光り輝く自我である。私であったつまらぬ人格より遥かに優れたあるもの、もっと深い、もっと神聖な存在が意識の中に現われて、私になるのだ。それと共に、完全な自由の驚くべき新しい感じがやって来る。なぜなら、思いは常に行きつ戻りつしている織機の杼(ひ)のようなものであって、それの専制的な動きから解放されることは、牢獄から戸外に歩み出るようなものなのであるから。

 

 私は自分を、この世の意識の外に見出す。今まで私をかくまっていてくれた地球は、姿を消す。私は光り輝く海のまん中にいる。その海は、それからもろもろの世界が創造されるところの原始の材料、物質の最初の状態である。それは口には表現できない無限の空間にひろがっており、信じられないほど生き生きとしている。

 

 私は閃光のように、空間内で演ぜられているこの神秘的な宇宙のドラマの意味に触れ、それから私の存在の根本の点に戻る。私は、新しい私は、神聖な至福の膝に憩う。私は忘れ川の水の盃を飲んだので、昨日の苦い記憶と明日の心配とは完全に消えてしまったのである。私は神の自由と、ほとんど描写の不可能な幸福を得た。私の両腕は深甚な同情をもってすべての被造物を抱く。なぜなら私は、すべてを知るということは、単にすべてを許すと言うだけでなく、すべてを愛するということなのだ、ということを、能う限りの深い形で理解するからである。私のハートは狂喜のうちに改造される。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P318~319)

 

        (ポール・ブラントン「秘められたインド」日本ヴェーダーンタ協会より)