「意富多多泥古を以て、我御前を祭ら令めたまわば、神の気起らず、国安く平ぎなん」
“‥‥‥古事記の明文に曰く、
「此天皇之御世に疫病多に起りて人民死せ尽きなんとす。璽天皇愁嘆而、神床に坐すの夜、大物主大神、御夢に顕れて曰く、『是者我之御心なり。故れ意富多多泥古を以て、我御前を祭ら令めたまわば、神の気起らず、国安く平ぎなん』」
と、是ぞ世界大救済の神策を獲給うの御垂示であります。こは稍神秘的の様で在れども、此意義は、今に明白に分かる日が来る事と確信するのであります。「天に風雲の障りあり。地に変動の妨げあり。人に疾病の煩いあり」と謂う事が古人の言に在るが、現今の人々は皆悉く霊肉共に重患に罹って居るのであります。肝腎の精神に本来の真光が失せて了って、思想が悉く病的である。身体も霊魂も共に重病に犯されて居るのが、現代の世界一般の人々の有様であります。一時も早く、片時も速やかに「大本神諭」 を喚起して、速やかに神宮を金輪際に遷座し、神祇を祭祀して、天下の疫気を悉く終息せしめ、国家安平の実を挙ぐる神事に努力せねば成らぬ時運が、迫って来たのである。”(『国教樹立について』より)
(「出口王仁三郎著作集 第一集」読売新聞社)
*ここで引用されている古事記の文章は、崇神天皇の御代に疫病が大流行したとき、天皇の夢に大物主大神が現われ、意富多多泥古(おほたたねこ)に自分を祀らせれば疫病は収まる、と告げられたため、その霊夢のとおり意富多多泥古という人物を捜し出して、三輪山(大神神社)に大物主大神を祀らせ祭祀を行うと、直ちに疫病は収まり、国も良く治まるようになった、という話を述べたものです。出口王仁三郎聖師によれば、古事記には六通りの読み方があって、単なる歴史書であるだけでなく予言の書でもあり、現在や未来に当てはめて解釈することも可能です。そして、この「国教樹立について」の中では、出口聖師は開祖のお筆先である「大本神諭」に、この「おほたたねこ」のルビをふられています。おそらく「おほたたねこ」には、ご神書や聖典、すなわち「主神がその中にまします『聖言』」の意味もあるのではないかと思います。
「筆先は艮の金神の生ける御姿なり、‥‥‥艮の金神は、筆先にて世に顕はる‥‥‥」
(「大本神諭」明治三七年一月八日)
・「霊界物語」に神はまします
“「霊界物語」を拝読するとき、神の言葉を今承(うけたまわ)っているのだという心構えであれば、魂の中に入るけれども、何か小説でも読んでいるような心構えであれば、得るものが少ないのである。
声を出して読めば、自分の耳に神のお言葉が直接響いてくる。神の御声を聞きつつあるという心で読めば内流となるのである。
神は現実の世界に住む者に対しては直接内流はくださらぬ。そこで聖言に依って内流するのである。「霊界物語」は瑞霊の教であり、聖言なのである。これによって生命の糧は与えられるのであるから、物語を常に拝読するように心がけなくてはならぬ。物語の中に神はましますことをさとらなくてはならぬ。”
(「愛善苑」昭和25年7月号 大国以都雄編『瑞言録』より)