神占・天津金木を学ぶ者への警告 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

(出口王仁三郎聖師と島本覚也氏(酵素農法の創始者)の会談)

 ‟なおも話は、覚也が大石凝真素美師や水野万年師の影響で古事記などの国学を研究していた関係で、神道論、惟神(かむながら)の道などについて拡がってゆく。覚也は聖師のその卓論を食い入るように拝聴、そしてもっていた疑問を問いただし、時間の経つのも忘れ、師のお疲れ具合まで気の回らぬほどの真剣な時をすごす。途中で、お付きの人であろう聖師とよく似た年恰好の上品な翁が、二度三度と聖師のお疲れを心配してのお伺いがあったが、師は意に介されず、大いに会話を楽しんでおられる風であったという。なお、このお付きの人は内海建朗という方で、聖師のお手伝いをされていた人らしい。また聖師は右のお話の中で、大石凝真素美師のことを、『大神人』との敬称をつけて呼んでおられたそうであるが、それは、聖師の、年長者をつねに尊敬し、大事にする気持ちの素直な表現に他ならないと思う。

 さらに覚也は、言霊学の研究者の一人として、わが国に伝わる神占の一種である天津金木――神算木――に深い関心をよせている旨も告げる。聖師はその問題に触れるや、わざわざ文箱より天津金木を取り出された。大本では、大正十年の第一次大本事件の頃までは、新年祭の時にこの神器を運用して、前途を神に伺い、神示を得ていた模様で、聖師自ら正月の綾部で斎戒沐浴、精進潔斎ののちに祭服に威儀を正して厳修したものだという。昭和に入るとそれももう必要なくなったようだ。というのも、聖師がもう何処にあってもつねに未来が見通せるまでの境地に達せられたせいだという。

 さて、聖師は二人の間に座布団を置かれ、その上に天津金木をのせる。そしていろいろと組み合わせながら、

 「これが ‟アー”」

 「これが ‟スー”」

と、一つ一つ解説しながらの金木の実演。お側の内海翁もはじめてみたという。側近であっても滅多にお目にかかれない珍しい一コマであったようだ。ところが、すべての解説が終わってから、

 「天津金木は天界からお許しのいただけるほど秀れた神人でないと使用は禁じられている。俗人がこれを深く研究すると、天界から大きなお叱りをうけるから、やめた方が良い」

と、いさめられたという。天津金木研究の第一人者の一人である水谷清が気狂いになってしまったのもそのせいかも知れない。覚也は、聖師の忠告があったため、その後、天津金木の深入りを断念し、ふたたび興味をもつことはなかった。また、言霊学の研究も戦後は自発的にやめている。古事記の研鑽についても同様、つまりいっさい止めてしまったのである。”

 

     (島本邦彦「大地の叫び 島本覚也の生涯」酵素の世界社より)

 

*近年、スピリチュアルがブームになり、古神道にも興味を持たれる方が増えたことで、今やこれまで少数の人にしか知られていなかった「天津金木」についても書籍が出版され、Amazonでも購入できるようになっています。ですが、出口聖師の「天津金木は天界からお許しのいただけるほど秀れた神人でないと使用は禁じられている。俗人がこれを深く研究すると、天界から大きなお叱りをうけるから、やめた方が良い」という警告を読むと、手を出さない方が賢明だと判断せざるを得ません。出口聖師が「神は順序である」と何度も強調されたように、神霊に関わることには様々な約束事があるのであり、興味本位で安易に手を出すべきではないと思います。