神様は苦行を嫌われる | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 ‟古来、裸体のまま、厳寒の候、神仏に日参したり、裸足参りなどなして、信仰の強固なるをほこり、かつ私利私欲のために祈願をなし、願望の成就せざるににいたって、この神は神力がないとかまたは仏力がないとか小言八百をならべ、ついには神仏の存在を否定する迷妄信者がずいぶん沢山あったが、人文の開けたという今日にても、やはり迷信の跡は絶えぬものとみえて、伏見の稲荷山、能勢の妙見、鞍馬山などへ登ってみると、裸参詣(夜中)、跣足参りはおろか、裸のまま神前や仏前において、天津祝詞を幾度となく妙な声をしぼり出して唱えるかと思えば、すぐその口で心経を唱える。法華経を誦む、実に奇怪至極である。

 なかには自分の腕に燭(ろうそく)を点し、肌がジリジリ焦げておるのを我慢して、あぶら汗をかいて一生懸命に欲望満足の祈願を凝らしておるのも沢山にある。また天から与えられ足る食物を食わずに断食をして、神仏に無理難題を強請したり、火物断ちをして、身体を砕いたり、いろいろの芸当をやることをもって信仰の奥秘を体得したように思っておる迷信信者もたくさんにある。こんなことをしている行者を見て、よろこんで願望をかなえ、福徳を与えてくれるような神なら、それこそ全く悪神である。神は人民に衣食の満足を与えたいのが御精神である。

 たとえ一日でも半時でも、天地経綸の司宰者(つかさ)として、この世に生まれしめたまいし人間に、飢餓(ひだる)い目をさせたり、寒い目をさせることは大変にお嫌いあそばすのである。しかるにその至仁至愛なる神様の大御心もわきまえず、ただ自分の肉体さえ苦しめたら、大神の御よろこびにあずかり、その代償として、無理な願いでも聞いてくれるものと誤解しておるのは、実に気の毒というより外に弁ずべき言葉がないのである。

 人間同志が互いに訪問する時でさえ、裸体や跣足で行っては、大なる無礼になる。まして主人や目上の人に、何事にもせよ、依頼に出て行くときにおいて、右のような無礼な風姿をして行くことはできぬではないか。人間同志の交際上から見ても裸体や跣足で人の家に頼みごとに行くことは、実に不都合千万である。いわんや至貴至尊なる大神に祈願する場合においておやである。衣冠束帯にて心身を清めととのえ、拍手再拝、かしこみ畏(かしこ)み申し上ぐべき神言(かみごと)を、裸体のままにて奏上するなぞは、不敬の最もはなはだしきものであります。”

 

              (「神霊界」大正八年十一月十五日号より)

 

 

・ラーマ・クリシュナのお話(スワミ・ブテシャーナンダ師の講話から)

 

 “ひところ、偉大な学者であったスワミ・トゥリヤーナンダが、聖典の研究に没頭し、またさまざまの形の厳しい修行を実践していた。あるとき、シュリ・ラーマ・クリシュナは弟子達に、なぜ、この頃ハリ(当時スワミ・トゥリヤーナンダはこう呼ばれていた)はここに来ないのか、とお尋ねになった。かれの友人の一人が、「師よ、かれはこの頃サーダナー(修行)に専念しております。それでここに来るひまがないのでございます」と答えた。師はそれをおききになったが、何もおっしゃらなかった。数日後に、師はカルカッタに、そしていつものようにバララームの家においでになった。

  家に着くと、かれは誰かに、「行ってハリを呼んできておくれ」とおっしゃった。かれは行って、師が呼んでいらっしゃる旨を伝えた。ハリは来た。そして、師が大勢の信者たちに囲まれてすわっておいでになる広間に入ったとき、師が涙を滝のように流しながら歌を唄っていらっしゃるのを見た。涙は師の衣服だけでなく、すわっておいでのカーペットまでもぬらしていた。歌の趣意は何であったのか。ただの芝居の歌だった。村芝居で、偉大な信者ハヌマーンが、ある場面でこの歌を唄うのである。ラーマの息子達、ラヴァとクシャが、ラーマの軍隊と戦っている。ハヌマーンはラーマの軍隊に属している。ラヴァとクシャは今しもハヌマーンと戦ってかれを縛り、母シターのもとにつれて来た。縄を引いて母の前に至り、「母上、この大きなサルを見てください。私たちが縛ったのです。私たちがこの大きなサルを縛ったのです」と言う。そのとき、ハヌマーンがこの歌の中で言うのである、「おお、ラヴァとクシャよ、君たちはなぜそのように自慢するのか。私が縛られることを許して上げたからこそ、君たちは私を縛ることができたのだ。私が捕らえられることを肯じなかったら、君たちに私を捕らえることなどができたか。君たちのプライドは無用のものだ。君たちは、自分たちが強力だから相手を捕らえることができたのだ、と思っている。私が許さなければできるはずがなかった、ということを知らないのだ」と。ハヌマーンのラーマへの愛、そしてかれが相手はラーマの息子たちだと知っていたことが、かれをして相手に勝ちを譲らせたのだ。それだからこそ、息子たちはハヌマーンを縛ることができたのである。

  ハリは、これは間違いなく、師が自分に教えていらっしゃるのだ、ということを悟った。師はかれに何も言わず、間接に意をお示しになったのだが、この演出によってハリ・マハラージは、神の悟りは苦行により、修行の熱意によって得られるものではない、ということを悟ったのである。われわれは、神がわれわれの上に慈悲をお垂れになったときに始めて、神ご自身がわれわれにかれを悟ることをお許しになったときにのみ、かれを悟ることができるのだ。修行の力で悟れるものではない。いかなる代償を払ってでも、神を買うことはできない。結局、Surrender 完全な屈服(お任せ)が、神を身近に悟る唯一の道なのである。”

  

         (「不滅の言葉 第21巻3号」日本ヴェーダーンタ協会より)

(スワミ・トゥリヤーナンダ)

 

*仏陀が苦行を否定し、中道を説いたことはよく知られていますが、インドで仏教が衰退し、ヒンドゥが復活してからは、再び苦行が重視されるようになってしまいました。しかし、 ラーマ・クリシュナなどの真の聖者たちは、やはり苦行には否定的です。神への完全な帰依(イスラーム)・み旨のままに(ラテン語でフィアット)・惟神(かむながら)は世界共通なのだと思います。