ペンテコステ(聖霊の降臨) 〔人智学〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “キリストの中にある人間の真の原像を示す意識の助け手が聖霊である。復活から七週間後、つまり五十日目(聖霊降臨祭をあらわすドイツ語「フィングステン」)という名はこれに由来している)にあたる聖霊降臨の祭の際に聖霊が注がれた。ゴルゴタの秘儀は時間のリズムの中で地上存在と宇宙的現実性の中により深く住み込み、高次の世界からひとつの意識の力を呼び寄せ、それをキリストに心惹かれる人々に伝えることができた。これこそが聖霊であり、キリスト者を「あらゆる真理の中に導き」、生きた思い出の中でキリストの言葉を想起させ、彼らが見る中でキリスト自身を輝かしく変容させる、すなわち認識可能な光の中に置くのである。

 キリスト教が単にキリストの教えと理解されるならば、それはキリスト教の本質からしてまだ不十分なものである。キリストは自分自身を、そして自分の存在と行為とを与えてくれる存在である。そしてこの存在と行為を説明する聖霊の教えが現われる。聖霊降誕祭の炎はいくつかに分かれ、ひとりひとりの弟子の頭に一つの炎が現われる。聖霊はひとりひとりの個人の中で働こうとしている。ひとりひとりの個人が自由な認識という光に満ちた土壌の中でキリストとの触れ合いを育み、深めることによってこそ、その人々の間でキリスト者の共同体、真の教会が生まれうる。そのようにしてキリストが人となったことは、人類がキリスト者となることにより全うされるのである。”

 

      (ルドルフ・フリーリンク「キリスト教の本質について」涼風書林より)

 

*この本は、ルドルフ・シュタイナーが創立に関わった“キリスト者共同体”の司祭であり総代表でもあったルドルフ・フリーリンク博士によって書かれたものです。博士の本で邦訳があるのはこれ一冊しかないようですが、この本や、同じ出版社から出されている「キリストへの道・クレド」や「悪を救済するキリストの力」などは自分がこれまでに持っていたキリスト教に対する様々な疑問に答えてくれるもので大変勉強になりました。

 

*ペンテコステの意味についてですが、最後の文で、「キリストが人となったことは、人類がキリスト者となることにより全うされるのである」とありますが、「キリスト者となる」ということは、聖霊のバプテスマを受ける、自分の中のキリスト意識(直日)に目覚める、ということと同じ意味だと思います。そして出口聖師は、大本教旨「人は天地経綸の主体なり」について説明された時、「人(ヒト)とは霊止(ヒト)であって、神の生き宮のことである。そして、ヒトと人間は違う。人間には経綸はできぬ」と言われました。我々人間は霊止(ヒト)とならなければならないのであり、「そもそも最初からそうなるように造られているのだ」、とも言われています。私は、「ペンテコステ(聖霊降臨)=聖霊のバプテスマ」とは、「天の岩戸開き」と同じだと思っています。

 

*自分はイエス・キリストを信じているが、歴史的に様々な問題を起こしたキリスト教会は嫌いだと言って、既存の教会を否定する人に会ったことがあります。まるで世界中で真のキリスト教徒は自分だけであるかのような言い方で、正直言って呆れてしまいました。当然のことながら、他にも聖霊を受けられた人々はいるのであり(受けてはいるがまだ働きが起きていない人も含めて)、そうなれば、それらの人々の間でキリスト者の共同体、つまり教会が生まれて来るのは自然であって(「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」マタイ伝18-20)、罪人の集まりである教会(イエスは「我は罪人を招くために来たれり」と言われています)で個人的に直接何らかの攻撃を受けたというのであればまだ理解できますが、それでもその場合は、聖職者や信徒たちと距離を置くようにすべきであって、最初から「聖徒の交わり」自体を否定してしまうとは、キリストと一体である聖霊の働きをも否定することに他ならず、あまりにも浅はかとしか思えません。もちろん、教会は神に属するものであり、神が教会に属するわけではなく、人間によって構成される教会がしばしば過ちを犯してしまうのは事実です。そして教会に対する批判には、それが正当なものであるならば、聖職者たちは誠実に対応しなければなりません。もしそのようになされないのであれば、それは聖職者や信徒たちが、自分達が属しているものが教会であることを否定したことになります。繰り返しますが、キリストの名のもとに集まった人たちが「教会」であり、そこでキリストがないがしろにされているのであれば、単なる「人の集まり」にすぎません。しかし、それでも神の摂理によって建てられた様々な宗教の様々な教会があるのであり、それらすべてが駄目になるなどあり得ません。聖書では、麦畑に悪魔によって撒かれた毒麦は、そのまま良い麦の中に放置され、収穫のときにすべての麦が一斉に刈り入れられ、そこではじめて毒麦だけが別にされて、束にされ焼き捨てられます(マタイ伝13)。良い麦のために、あえて毒麦は収穫のときまで放置され続けるのであって、その意味をよく考える必要があると思います。