「よろこばして改心させるほかないぞよ」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……大本文献全体から見ますと、大宇宙の総統神にます大国常立大神が、最奥天国の天極紫微宮においては、八咫の大鏡とあらわれ、第一天国では、現界の太陽の七倍に、第二天国では五倍に、第三天国では二倍の光を放って顕現され、低所の天人たちの前には一個の天人としてあらわれたまいて教導されています。地上の聖地では、また一個の人としてあらわれたまい、あるいは禽獣虫魚とも変現して、万有を済度されていますが、この御活動を大神の和光同塵の態度というのであります。愛善信真の大神の救済の大活動こそは、和光同塵の大根元であります。

 国祖神政時代の大八洲彦命の和光同塵は、大神の御経綸より流れ出ていることは申すまでもありません。日本史の崇神天皇の遠慮神策も、まったく大神の地上天国成就のための大経綸のあらわれであります。

 大本開祖および出口聖師の和光同塵の態度もまた、大神より流れ来るものです。和光同塵の語源が、国祖の分霊たる老子の教から生まれているのも、深い理由があるものと言うことができます。

 邪神界の和光同塵の場合は、大神さまの神徳を妨げ、その祭祀を廃止することを中心とします。本来の意味からは全く根本的に相違するものであります。

 そこで、和光同塵という言葉のなかに「和光同塵やり方」というのがありますので、ご注意を願いたいと思います。これは悪い方で神様を拝まんようにしる、お宮を人里離れた山頂へほりあげてしまう「やり方」です。神様を押し込める、神様のやり方をしない、そういった悪いやり方です。霊界物語には『国祖は和光同塵的神政を好み給わざりけり』とあります。和光同塵的やり方はいけない。やはり天地の律法そのままの天国のやり方をしたい、とはっきり書いてあります。

 しかし、自分の子どもたちがわからないことからご隠退される。そこで、和光同塵の真意は、神様が光をやわらげて俗世間とへだてなくまじわっていかれることになります。そして、和光同塵の神策というのは、地上に真の平和、天国を造る準備をされることです。

 ですから、大本と言うのは、天上の儀といいますか。天国の姿を、天国のやり方を地上に実行するために出現した団体です。神諭を拝読しますと、『みろくさまと反対の知恵でなにほど考えてもわからん善ひとつの御経綸であるぞよ』とあります。親神はただ「救いたい」というご一念だけです。そういうことですから、自分たちがうまいことをしようという考えで、もしもこの大本の教えを調べても、到底わからない。こんなまわりくどいことしておってもダメだ、ということになってしまって、出ていかねばならんようになる。

 宇宙の造り主が地上に天国をたてられるについては、その準備・仕組は、一通りや二通りや百通りや仙通りではないぞよ、と示されているごとく、あらゆる手を用意されているのです。だから小さい心でおると、神様の和光同塵の神策は理解できない。われわれは天災地変でも起こして、早く立替え立て直しをされたらどうかと思いがちですが、神様は『天災や戦争をすると人民の心がだんだん悪くなるばかり』である、と示されている。それどころか『どうしても改心ができねば、よろこばして改心させるほかないぞよ』とお示しになっている。『天災のみせしめは恐いぞよ』等の警告はありますが、大神さまの御本心は『よろこばして改心させるほかないぞよ』と示されています。”

 

     (木庭次守「霊界物語の啓示の世界」日本タニハ文化研究所より)

 

 

「法が整備されればされるほど天界は遠ざかってしまう」

 

  “霊界が現界に相応してくるといっても、全然異なっている形式の世界が相応するものではない。相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない。動物霊は動物的の形式、即ち精神に相応し、天使は人としての内分が天界に向かっているときに相応してくる。それだから神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ。そこで神は天国を地に来たらしむるために神意を啓示し、教化の道を開示するのである。そして現界に住む人間の心の中に、天界を容れ収むる形式が少しでもできれば、そこに基礎が相応して来るのである。それだから教えの無い、神の意図の啓示されていない宗教がいかに発展していっても、天国は地上に建てられるものではない。教の権威はその点にあるのであって、人智をもって人の心を導くことは危険至極なことであって、天界との相応が成り立たないのである。

 人のあり方が道義的であり、正しい道に向かっているときには法律というものでも、重大に考えられなくなるが、そうして心的の方向が失われて、体的となり、どん欲的となるに従って法律というものが強化され、それが尊重されて来るのである。法律が強化されるには、どうしても権力というものが裏付けされなくては、法が力を発揮することができない。そうなると、力が人を支配することになる。力が支配している間は天界は相応するどころか、次第に天界は遠ざかるものである。天界が接近して来るのは力よりも真理、愛善という状態にならなくてはならぬ。一言にして言えば、正しい宗教、正しい宗教情操が常識化された世界とならなくてはならないのだ。宗教が基礎となった人類文化世界が建てられなくてはならない。それだから、人はそうした世界を建てるための共通の使命、責任があるというのである。

 人類の進歩、人類の文化向上ということは、天国との接近、天界との相応に目標があるのであって、いくら人権が尊重され法律が強化されて秩序ができたからといって、それで進歩した文化の世と思うのは誤りであり、天界と相応しない現界は、永続性があるものではない。それで人々は天界と相応せしむる世を建てるべく目標を置くと同時に、それに向かったあらゆる努力が払われなくてはならない。

 神は静的の存在ではない。常住不断の活動に坐しますものだ。また宇宙万有、活動の無いところに生命も発展も無いのである如く、相応するには、人もまた活動的でなくてはならない。活動を否み、努力を怠る世界に相応はないのである。しかし如何に活動し、努力していても、神と離れた心の状態にある人には、何か淋しい足りないものがあって、次第に努力活動することが嫌になるのである。それは天界と接近する心的状態ができていないで、外分的の努力活動だからである。内分的の状態に在って努力活動すれば、益々歓喜と幸福に満たされてきて、実に光明的となる。天界と接近し、相応するが故である。

 

          (「海潮」昭和25年7月号 大国以都雄録『相応の世界』より)