早すぎる性体験の害  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・最初の師、ボルシェ神父の教え    〔G・I・グルジェフ〕

 

 “会話の中で、彼はしばしば性の問題に触れた。

 性欲に関して、彼は一度次のように語った。

 「若者が成人に達する前に一度でもこの肉欲の味をしめると、生得権である生涯の幸福を、ポタージュ一杯のために弟のヤコブに売ったエサウと同じ身の上になるだろう。青年がたとえ一度でもこの誘惑に屈すると、本当に価値ある人間になる可能性を一生失ってしまうからだ。

 成人前の肉欲の満足は、モラヴィア産のマジャールにアルコールを注ぐようなものだ。一滴でもアルコールの入ったマジャールからは、ワインではなく酢しかできないのと同じように、成人前の肉欲の満足は若者を奇形化してしまう。けれどもいったん大人になったら好きなことをしてもかまわない。ちょうど、マジャールがワインになれば、いくらアルコールを混ぜても駄目にならず、好みの強さに調合できるのと同じことだ。」

 ボルシェ神父は、世界と人間について独自の考えを持っていた。人間とその存在目的についての彼の見解は、まわりの人々のそれとも、私がそれまでに聞いたり本で読んだりしたどんな考え方ともまったく異なっていた。

 彼が人間というものをどう理解し、人間に何を求めていたかを示すために、その思想の一端を紹介してみよう。

 彼は言った。

 「成人前の人間は、よくも悪くも、意図があってもなくても、自分の行為に何の責任もない。全責任を負っているのは、意識的にせよ偶然の状況によるにせよ、若者に責任ある人生への準備をさせる義務を引き受けた、まわりの大人たちなのだ。

 青年期というものは、男女を問わずどの人間にとっても、母胎内での受精によって始まった発達がいわば完成にいたる仕上げにあてられた時期だと言える。これ以後、つまり発達の過程が完了してからは、人間はあらゆる意図的な、あるいは非意図的な自己発現に関して個人的な責任を負うようになる。

 何世紀にもわたって、理性的な人々の観察によって明らかにされ、確かめられてきた自然法則によれば、この過程は、生まれ育った場所の地理的条件に従い、男性の場合は二十~二十三歳、女性の場合は十五~十九歳の間に完了する。

 過去の賢人たちが説くように、こうした年齢区分は、あらゆる自己発現に個人的な責任を持つ自立した人間を生む出すために、自然の法則によって定められたものなのだが、不幸なことに今日ではまったく認識されていないに等しい。そして、私の見るところでは、それはおもに現代の教育が、万人の生活において最も重要な性の問題に関して怠慢な態度をとっているせいなのだ。……(以下略)」”

 

      (G・I・グルジェフ「注目すべき人々との出会い」めるくまーる社より)

 

 

・数学者、岡潔先生

 

 “私は大学を出てから四十年近く数学の研究をつづけているのだが、どのようにして数学をしてきたかをひとくちにいうと、自我を抑止することによって大自然の無差別智の働くにまかせたのだといえる。大自然というのは、ふつうにいう自然の奥にあるもの、いわば「奥行きのある自然」のことである。だから、ふつうの自然というのは大自然の上(うわ)っ面にすぎない。無差別智というのは、行住坐臥いつも働いているのに、それが働いていることがその人にわからない。そういう智力である。そして智には知、情、意がすべて含まれている。”(P40、41)

 

“……問題児が四割というのは、父母が悪い子を産んだのであって、その子たちはより悪い父母に成長し、さらに悪い子を産むだろうから、放任すればこの四割という比率は増大するだろうし、内容的にも悪質になっていくといえる。こんな事態になったのはひとえに、種族保存の本能を享楽の具と考えたためであろうが、これを治すにはどうすればよいか。私は次の三つを同時に努めねばならないと思う。

 まず、戒律を守らせる教育である。時実利彦著『脳の話』(岩波新書)を参照していえば、大脳皮質は古皮質と新皮質とに大別され、古皮質は欲情の温床であってサルなどとあまり違わないが、新皮質は人の人たるゆえんのものを司っている。

 そして、猿などの古皮質には、いわば自動調節装置が備わっていて、おのずから節度あるようになっているが、人にはその装置がない。その代わり、人には大脳前頭葉に抑止する働きが与えられていて、この働きを使って欲情や本能を適度におさえることができる。さらに衝動や感情や意欲を抑止し、それによって向上することができる。他の動物たちにしてみれば、うらやましいことであろう。しかし、意志しなければ抑止力は働かないのであって、欲情、本能もその例外ではない。

 それで、戒律を守らせないで人の子を内面的に育てることは不可能といえる。教育がそのことをよく知って改めなければ、欲情や本能がその人を支配することになってしまう。いまは「何々しなさい」という教育ばかりで「何々してはいけない」という教育はほとんど行われていない。これが何より心配なことである。それにしても、終戦二、三年という目をおおいたいような人心混乱のさなかに、どう考えてそれまであった戒律を取り除いてしまったのだろうか。

 第二に国の心的空気を清らかに保ってほしい。町にごみを捨ててもまあ大したことにはならないが、国の心的空気を汚すと、それがただちにこどもたちの情緒の汚れとなり、それが大脳の困った発育状態となってあらわれる。そうであるのに、まるで汚さなければ損だと思っているかのように汚しているのが現状で、とくに種族保存の本能の面でそういえる。これはすべて厳禁すべきで、学校も厳罰をもってのぞむべきであろう。

 進駐軍が始めて来たとき、「進駐軍は日本を骨抜きにするため、三つのSをやらせようとしている」という巷説があった。セックス、スクリーン、スポーツである。今やこの三つのSは、この国に夏草のごとく茂りに茂っている。私に全くわからないのは、この国の人たちはこれをどう見ているのであろうかということである。

 第三に男女の性の問題がある。この問題を見きわめることは非常に難しい。男女の性別は真の生命の根源には見られないが、根源にごく近い所にすでに見られるように思われる。もちろん肉体以前の所である。私には、女性は情から知へ意志が働くし、男性は知から情へ意志が働くように見える。すると二つ合わせると、意志は全く働かないことになって安定するかもしれない。

 ともかく、男女は肉体以前にすでに相ひき、そこに男女間の愛情が生まれるようである。だから種族保存の本能のところには、精神的なものと肉体的なものが混合しており、そのため他の欲情のようには簡単に抑止できないのであろう。

 また、うまくいっている夫婦というのは、たとえば共同事業で二人の男性の仲がうまくいっているときのように簡単なものではない。仲のよい夫婦の典型は実に多種多様で、描写することがすでにむずかしい。とすれば教育者は男女問題について何を目標に教えればよいのであろう。

 教育は全力をあげてこの点を究明すべきで、もし手にあまるようならば、少なくともしばらくは元の男女別学に返すべきであろう。それにしても私に全くわからないのは、アメリカの夫婦が一般に見習うべきものでないことぐらいすぐわかりそうなものを、なぜ何の用意もなく男女共学に改めたのだろうということである。……(以下略)”(P155~P157)

 

           (岡潔「春風夏雨」角川ソフィア文庫より)

 

*高名な数学者であられる岡潔先生は、近代日本の智を代表する人物の一人ですが、一方で山崎弁栄上人の光明主義に帰依され、数学のみならず霊性をも深く探求しておられたことが知られています。その岡先生によれば、「自我を抑止することによって、大自然の無差別智の働くにまかせられる」ということです。リブログ先でも紹介させていただきましたが、ルドルフ・シュタイナーが言っているように、有害な性本能に取り込まれてしまうのを防ぐためには、意識的に抵抗しなければならないようです。