祈りと食事 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「無意識に食事をすると唯物論的になる」  〔シュタイナー人智学〕

 

 “……食物はトマトであるとか人参であるとか、それが宇宙の中に点在している、人間に栄養を与える霊的な力を介在しているものなのです。だから極論としては、我々はまだできないですが、ある方法をとれば食物なしでも生きていけるのです。実際そういう人がいましたでしょう。一週間に一度、ミサで小さいパンを食べるだけで生きた聖人がいましたでしょう。ああいう人はちょっとの刺激でそういうことができたのです。食べ物というのは、食べると刺激があるでしょう。人間はホースですからね。その刺激に応じて、人参が入ると人参の刺激が入るわけです。この刺激が宇宙から人参の刺激を持ってきます。そして栄養になるわけです。そのときに、どんな食べ物を食べても霊的な力が入ってきているのです。さっき言いましたが、子供の暴力の原因と同じように、霊的なものを無意識に迎え入れるというのが唯物論の原因でもあるのです。ですから無意識に食べ物を食べると唯物論的になるのです。良くないことは、ご飯を「いただきます」もいわないで、テレビを見ながらがーっと食べて、「ごちそうさま」と水を飲んで終わるという、ああいうのです。

 その救済方法は何かと言うと、食前の祈りです。家庭で子供たちがいるときはともかく、ちょっと場所が変わったりするとやりにくいです。親戚の家に行ったり、あるいはレストランでお祈りをすると他の人が違和感や反感を持つことが多いですね。何とか飯店だとかに行って大きな声でお祈りをすると、周りの人は「なんだ」ということになりますね。現代人は非常に敏感だから。そういうときには、「いただきます」という言葉はもちろん大事だし、関西の方ではよくこうやってやるのです(合掌する)。レストランなどで他の人が大勢いるときは無言でいいので、「今わたしはこの食べ物を通して霊的な力を頂きます。感謝します」と念じるのです。それは習慣として行うべきだと思います。食べるときに瞬間的でいいからそれを思うだけで良いのです。子供はそういう親の姿を見て、それを見習うわけです。

 ですから、子供が小さいうちはお祈りの言葉も言えたけれども、十四歳、十五歳になっていて急にお母さんが祈りの言葉を言うとばかにするとかいう場合は、食べる前に母親が何かやっているけれど、「何かなあ」と思わせればいいのです。食べる前に一拍置くわけです。すると思春期の子どももだんだん興味を持ってきます。それでいいのです。親の姿を見るだけでいいのです。そういったように、無意識に食物を食べないということです。これが全部、宗教的な生活に繋がっていく行為だと思うのです。”

 

          (小林直生「悪を救済するキリストの力」涼風書林より)

 

 

・G・I・グルジェフ

 

 “グルジェフに会う前に読んでいた本に従って、私は「意識してゆっくりと」食べ始めた。食物転換の物理的過程や、通常では食物がその最高目的を果たしえないことや、さらに進化について考えながら、「意識して食事すること」の必要性を自分自身で確かめていた。多くの宗教に見られる食前の祈りは、「意識して食事すること」を想起させる祈りである。他の人と分け合う食物が盛られた大皿が空になるまでに、私は意識しながらゆっくりと、たった四回しかスプーンを運ばなかった。食事中、グルジェフはたいていテーブルのあいだを歩き回っていた。彼は何一つ見逃さず、このときは私の傍に立ち止まり、「そうだ、トーマ、そうだ」と言った。”

 

  (トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」めるくまーる社)

 

 

・聖痕者テレーゼ・ノイマン (御聖体(ホスチア)だけで生き続けたカトリック修道女)

 

 “ある時、聖職録受領者ヘルトルは彼女に冗談のように「あなたは救い主以上になるつもりですか?救い主も地上においでになった時は食事をなさったではありませんか」といった。テレーゼは微笑しながら、「救い主にはどんなことでもおできになりますよ」と答えただけでした。助祭ファーゼルが何も食べずに生きておられるのはどんな理由からかとたずねますと、彼女はやさしく教えるように、

 「私はまったく何も食べずに生きているのではありません。救い主で生きているのです。救い主は、『私の体は、まことの食物である』とおおせられました。救い主がお望みならば、私が救い主をいただいて生きているのになんの不思議もないではありませんか」

と答えたのです。このように、聖体が彼女にとって唯一の食物であることはなんの疑いをもさしはさむ余地はありません。”

 

 “主任司祭が聖体をもって彼女に近づくと、彼女はほとんどきまって恍惚状態に陥り、その状態のうちに同時に幻視がともないます。その両腕は上方に差し上げられ、その眼は主任司祭の両手に捧げられた聖なるホスチアの方へと注がれます。司祭が祈りを唱えているあいだ、彼女はまるで変容したかのように、至福の微笑を浮かべて眺めています。この彼女独特の表情態度についてたずねますと、彼女はこう説明しています。「私に、輝かしい姿の救い主が眼前に現われます。そのお姿の輝きはたちまち火焔となって私に近づき、私の口の中に入るのです。それからあとのことは何もわかりません。私はまったく救い主のみ許にあるのです」。一九二八年以来、テレーゼは聖体拝領の時ホスチアを、あるいはその一部分をさえ飲み込む口の運動をしません。司教カスパール博士は特にこの点を重視し、次のように記しています。「テレーゼの口中の運動はぜんぜん見られなかった。飲み下そうとする努力も見えなかった。ホスチアが口中に入れられると同時にその状態は消え失せていた。たしかにホスチアは自然に消滅したのである。このことはウアイツ司教もすでに確かめられたことである。」”

 

  (カール・デンライトネル「〔受難〕の旅人 テレーゼ・ノイマン」ドン・ボスコ社より)

 

*マインドフルネスにも、レーズン・エクササイズというのがありますね。