言霊による病気治療 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・病気平癒を祈る歌

 

 言霊(ことたま)の天照国ぞ言霊の 幸はふ国ぞ生くる神国

 

 いたづきを(あん)(わずら)ふことなかれ 有明月の輝く世なれば

 

 久方の高天原(たかあまはら)の神風に 暴風中風逃げちりてゆく

 

 何事も()り直します神なれば この喘息を善息とせよ

 

 此の胸は千木かつを木の棟にして 病はらひ戸神社(かみ)御棟(おんむね)

 

 この腹は高天原(たかあまはら)の腹にして 生命(いのち)の神のつどいます腹

 

 腰もたち足もたつべし(かむ)(ながら) (くに)(とこ)(たち)の神の助立

 

 しめつけし冬の氷も朝日子の 光にとくる葦原(あしはら)の国

 

 原に坐す命の神にたてまつる 此の食物(おしもの)に力と味あれ

 

 脚部神経痛には、両手の掌で、股(もも)から足の指先に向かってしぼるようになでながら、「しめつけし冬の氷も朝日子の光にとくる葦原の国」とくりかえし、くりかえしうたうと、次第に治るものである。

 

            (出口瑞月「愛善健康法 薬の巻」天声社より)

 

*肺病患者の病気平癒のお取次で、大神様に祝詞と天の数歌を奏上し、病人の胸を撫でながら「この胸はちぎかつをぎの棟(むね)にして やまひはらひどみやしろのむね」という歌を数回唱えたら治ったという話が、昔の「おほもと」誌に掲載されていました(あと、肺病には生ネギを食べることが勧められています)。新型肺炎にも効果があるといいですね。

 

 

・「カレワラ」  フィンランドの古代叙事詩

 “フィンランドの古代叙事詩「カレワラ」は、さまざまな叙事詩の中でも戦争の専門家が出てこない点できわだっている。騎士とか貴族とか戦士が登場しないのである。戦争はある。しかしそれがどうやって決着がつくかといえば、詩人が敵方の「存在の秘密」を歌にしてしまえば、それで「参った」になるのである。たいへん平和な戦争といわねばならない。
 この発想は、病気治療にも見られる。一般の西洋的感性の中では、病気は外から襲ってくる敵である。断固として戦わなければならないし、力が足りなければ薬の力を借りて戦っていく。だが、多くの病気が外からではなく「中から」、自分の生活の中のストレス過多や運動不足等々によって起こってくる時代には、このイメージはあまり役に立たない。
 ガンの心理療法として知られるサイモントン療法にしても、そこでは戦争・戦闘イメージが中心になっていて、ひたすらガンを撲滅すべき敵としてしか考えない。白血球などの「正義の軍隊」がガンに対して殲滅戦を繰り広げるわけだ。東洋医学的な感性をもった人は、「もっとガンと共存していくことを考えた方がいいのではないか」とも言ってみたくなるだろう。ガン細胞がもともと自分の細胞であるのだから、なおさらのことである。
 しかし「カレワラ」の中では、病気どころか、文字どおり外からやってきた事故や災厄さえも、戦闘によってではなく調和の技術によって処理しようとする。たとえば薪を割っていて手がすべって斧で膝を切ったとする。そのときどうするかというと、「この世になぜ鉄は存在するか」という歌を歌うと、血が止まってしまうのである。どうしてだろうか。その歌は鉄の存在の秘密をあばき、それによって鉄を無害なものに変えてしまう。つまり、鉄と和解が成立するからだ。
 同様に毒蛇にかまれたときも「なぜそこに毒蛇が存在するか」の秘密を歌う。人間にとってはいてほしくないが、蛇は自分の理由で、連綿たる「縁」のうちにそこにいて、人をかんだのである。その「縁」を解明すれば、毒蛇の毒は毒でなくなってしまう。
 このちょっとあきれてしまう楽観性をもった発想は、十八世紀のハーネマン以来ヨーロッパの民間医学としてひろまっているホメオパシーとも通ずるものがある。無理に訳すときは「同毒療法」とよばれるこれは、普通の医学が病気の原因となった毒に対抗するものをからだに入れていこうとするのに対して、原因の物質がわかったら、まさにそれを再びからだに入れるのである。ただし、非常に薄く、時には何千倍にも薄めて投与するのだ。物質的にはほとんど残っていないほどの希釈液だが、その「気」が残っている。同じ毒を注射してそれと「和解」するという発想には通ずるものがある。ただ、ホメオパシーでは歌を使わない。
 中国には「祝由(しゅくゆう)」というシャーマン医学の方法があった。由は病気の原因ということであり、まず、なぜその患者はいまここにいるかという「縁」を解明するのである。病気の名前を知ることはあまり問題ではない。さまざまな苦痛が複合して、人間関係のもつれや心配事もおそらくはあって、患者はここへ来たのである。それを互いに納得いくまで話す。もっとも、このように表現できるカウンセリングなりセラピーなりがどんな形でありえたかは、よくわかっていない。とにかく「縁」としての「由」を明らかにした上で、「祝」、つまり「治りますよ」と宣言するのである。”

         (津村喬「気脈のエコロジー 天人合一と深層体育」創元社より)