虚心の祈り 「愚なる心に立ちかへる」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・マイスター・エックハルト(13~14世紀、ドイツ)

 

〔最強の祈りと至高の業作について〕

 “最強の、ほとんど一切を獲得すべき全能の祈り、およびいかなるものにも勝る至高の業作、それは虚心(das ledige gemüete)から出るところのもののほかにはない。心が虚であればあるほど、そこから出る祈りと業作とは、より強力なより価高きもの、より有益な讃美すべき完全なものと成る。実に虚心こそ一切の事をなすことができるものである。

 虚心とは何か。

 虚心とは、何物をも背負わず何物にも乱されず、何物へも結ばれないもの、己の好みをいかなる方法にも結びつけず、己の利益を何物にも思わずして、ただひたすらに神の御意志に身をまかせ、己の意志を棄却し切った心である。人間のなし得る仕事がいかに小であり取るに足らぬものであろうとも、もしそれがこのような虚心からなされるならば、それは力あるもの、働きあるものとなるのである。

 それ故に、人は激しく強く祈らねばならない。すべての肢体と能力とが、目と耳、口と心臓その他のすべての感官がこの方向に向かうように、と。そして、つねに彼の前に現前し、彼がそれに向かって祈るもの・・・すなわち神・・・と一つになれる心がまえの自信が出来上がるまでは、彼はこの祈りを止めてはならないのである。”

 

     (マイスター・エックハルト「神の慰めの書」講談社学術文庫より)

 

 

・妙好人、三河のおその

 

 “このおそのが、あるとき田舎道をいつもの通り「南無阿弥陀仏」、南無阿弥陀仏」と言って歩いておった。すると一人の若い女が行き過ぎて、おそののその姿を見て大いに軽蔑して、「ああ、またおそのさんの空(から)念仏か」と申しました。するとおそのはそれを聞いてその女の方へ駈け出していきました。若い女は、空念仏かと悪口を言ったのですから、定めし怒って来たのだろうと思って、「そんなに怒らんでもいいが」というと、おそのは、「いやいや怒るのではない、実はあなたにお礼が言いたくてあとを追ったのだ。それはもしも私の言う念仏が充実した念仏であって、それが手柄となって救われるというのならば、私のような愚かなものは、何としても救われる値打はない。しかしあなたは空念仏ということをおっしゃった。自分の念仏ではなくて空念仏となってこそ、初めて救われるのだということをあなたが教えて下さったので、こんなありがたいことはない」。こう言って非常に厚く礼を述べたということです。これはやはり念仏の真意を、非常によくとらえた言葉だと思うのです。私が念仏するというのならば、もはや自力的な念仏なのでありまして、私がからっぽになっている念仏だと言えると思うのです。

 法然上人に、沢山の人々が念仏とは何だということを繰り返し聞いたという話ですが、いつも法然上人は簡単に「ただ申すばかり」と言われたと申します。ただ南無阿弥陀仏と言えばいいのだ、こう教えられているのであります。この「ただ」ということに千鈞の重みがあるわけでして、何か意味あって言う念仏であるならば、それは本当の念仏ではないのであります。”

 

             (「柳宗悦 妙好人論集」岩波書店より)

 

 

・「捨てゝこそ」  空也上人、一遍上人

 

 “南無阿弥陀仏と申す以外には、特別に念仏を称える心構えはないと申します。念仏の行者は、一切のことを捨てて念仏することを勧めています。空也証人の「捨てゝこそ」―― すべてを捨てて念仏する―― を金言とほめたたえ、念仏の行者は、智慧・愚癡・善・悪・貴賤・高下・地獄・極楽・迷・悟等の相対差別の一切を捨てて申す念仏が仏の本願にかなうこと。このように打ちあげ打ちあげ(声高々と)となえれば、仏もなく我もなく、そこには理屈もありません。今までの迷いの世界も浄土に変わる。生きとし生きるもの―― 一切衆生、山河草木はもちろんのこと、風の音も浪の音も皆念仏であるといいます。一遍上人のすすめるいわゆる『一遍の念仏』です。「一遍の念仏法界に遍くひろがる」という念仏です。このように一遍上人が言うことも捨てて、何ともかとも思慮分別を捨てて念仏しなさい。安心・不安心を考えず本願にまかせて念仏するのです。それ以外には念仏の心構えはありません。ただ愚かなものの心に立ち返ってただ念仏しなさいとすすめるのです。

 「捨てゝこそ」の念仏、相対差別の凡夫が、絶対不二の名号に帰入する道はそれ以外にはないのです。しかし捨てるというとまたそこに分別が顔を出します。捨てる心もまた捨てなければなりません。それが「何ともかともあてがひかはらずして、本願にまかせる」ことであり、「愚なる心に立ちかへる」ことなのでありましょう。一遍上人の歌に、

 

  身をすつる心をすつれば おもひなき世にすみ染の袖

 

とあります。”

 

       (橘俊道「宗祖のことばシリーズ⑨ 一遍のことば」雄山閣より)

 

 

・熊野権現の神勅  「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず」

 

 一遍上人(時宗の宗祖、平安時代末期~鎌倉時代)は、“南無阿弥陀仏”の六字の名号を刷った札を人々にわかち与えながら旅を続けていましたが、紀州の熊野権現へ参る途中、ある僧侶から、「疑っているわけではないが、まだ信心の心が起こっていないのに、起こったとしてその札を受け取ることはできない」と言われ、その念仏札を突き返されてしまいます。狼狽した上人は、「信心が起こっていなくても、とにかく受け取ってください」と、無理やりその僧にお札を受け取らせるのですが、この出来事によって、果たして自分の行っていることは、間違っていたのではないかと悩むようになり、答えを求めて熊野権現(仏教においては阿弥陀如来と同体とされています)の本宮に参籠し、神勅を請います。上人の夢に現れた神のお告げはこうでした。「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず、その札をくばるべし。(あなたの考えは間違っている。あなたの勧めによって、すべての人が極楽浄土に往生できるのではない。すべての人が往生できるのは、すでに十劫という遠い昔に、阿弥陀仏が法蔵菩薩といっていたとき正しい悟りを得て、南無阿弥陀仏と唱えることによって、極楽往生できると決定しているのだ。従って、信心があろうとなかろうと、心が清らかであろうとなかろうと、誰かれの区別なく、念仏札を配って結縁せよ。)」

 

参考:栗田勇著「一遍上人」(新潮文庫)、河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)

 

 

 微塵(  みじん)ほどよきことあらば迷ふのに 丸で悪ふて(わし)が仕合せ (妙好人、岩見(いわみ)の才市)