災害による死、若者や子供の死が意味すること | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “……自然災害で、多くの人が死にました。それらの人々が一緒に死んだのは彼らのカルマだ、と思ってはなりません。そのように思うのは安っぽい考えです。現世で生じることが、つねに前世で犯した罪に起因する必要はないのです。多数の人が自然災害で亡くなったのを探究した事例があります。それらの人々は、来世で結びつき、共通の運命によって、共同でなにかを世界にもたらすことを試みます。その災害によって、来世ではたんに物質に関わることをやめる原因が形成されたのです。そうして来世のために、精神的なものへと向かう態度が形成されるのです。
 この場合、なにが生じたのでしょうか。前世にさかのぼってみると、特別の出来事として、地震によってともに死んだことが見出されます。地震の瞬間に、物質の価値のなさが彼らに明らかになり、精神的なものへの傾向が発展したのです。精神科学的に調査すると、精神的―霊的なものを世界にもたらした人々が、そのような出来事をとおして用意されたということがわかります。
 このように、はじめてなにかが人生の中で生じることがあります。災害によって多数の人々が亡くなったり、だれかが事故で早死にした場合、つねに前世の過失にその原因を帰してはならないことを、お話しました。そのような死は最初の原因として現われたのであって、その埋め合わせが来世でなされるのです。
 それ以外の場合もありえます。一連の人生のうち、ひとつの人生で早死にすることがありえます。その人物は、三つの人生を通して人類に何かをもたらす使命を持っていて、その使命は構築力の働いている身体をもって物質界に生きるときにのみ果たされうるということがありえます。
 35歳までの身体の中に生きるか、高齢の身体の中に生きるかは、まったく異なったことです。35歳まで、人間は自分の力を身体の中に送ります。力を内面から展開するのです。35歳以後になると、人間はただ内的にのみ先に進むようになり、生命力をもって絶えず外的な力にむかって突進するようになります。内的組織を見ると、35歳以前と以後とでは、まったく異なっています。人類進化の叡智にしたがって、35歳以後に押し寄せるものにむかって突進しないことによってのみ使命を果たせる人間が必要とされるとしてみましょう。そうすると、その人物の人生は短いものになることがあります。そのような場合があるのです。……”

         (ルドルフ・シュタイナー「カルマの開示」イザラ書房より)

 

・エドガー・ケイシー

 

 “一九二五年にエドガー・ケイシーはある夢解釈のリーディングの際、自発的に次の言葉を付け加えました。中国に大災害があり、多くの人が死んだと説明しました。そして、この最近肉体を離れた魂の多くが、これからの数年間に、あの国の発展に根本的な影響を与えるために、霊的領域の位置についたとケイシーは述べたのです。言葉を変えれば、これらの魂の態度や欲求が、人間の問題に影響を与え続け、霊的次元の中でのその位置からいっても、「かなり大きな」影響を与え続けることになるのです。”

 

 (マーク・サーストン / クリストファー・フェイゼル「エドガー・ケイシーに学ぶ幸せの法則」たま出版より)

   

 

 問七:「船が沈没して生命を失った人々の魂から期待できるのは同情でしょうか。敵対心でしょうか。」

 

 答七:「言ったように、同情と助けである。何百人という人々がそうしたがっている。助けたい、導きたいと思っているのだ。」(一三九五-一) 

 

   (ジュリエット・ブルックバラード「エドガー・ケイシー 大宇宙の神秘」中央アート出版より)

 

・インマヌエル・スウェーデンボルグ  「死後、すべての子供たちは天界に入って天使となる」

 “スウェーデンボルグはまた、子供の死がどんなに心に傷を、特に後に残された者の心に傷を残すものであっても、死んでしまった子供にはその傷がいつまでも残ることはない、と確証しています。霊界にいる子供はただ前方だけを見て、後ろを見ません。その子供にとって、失ったように思われる未来は、その価値が高まります。神は、天界にやって来た子供達が、たとえまだいろいろな記憶を持っているにしても、家族や慣れ親しんだ環境を失ったことで悲しんだり恐れを感じたりすることのないよう配慮されます。
 子供達は、その時が来れば、自分の家族たちに再び会える、みんなで喜び合える、と知っています。そして天界には、私たちの習性となっている時間と空間の制限はないので、首を長くして待つといった感覚はありません。子供はただ現在を生き、過去も未来も意識しません。新しい天界の生活に自分を適応させることだけを切望し、これに熱中し、これが関心のすべてです。しかもその新しい生活には、子供を没頭させ満足させるものがたくさんあります。
 そこでの生活では、この世をどれほど悲劇的に終わったとしても、ただちに明るい幸せな世界がくり広げられます。私たちは、「なぜ?この小さな子がなぜ?神よ、どうして私に?」との疑問に悩みます。子供達は素早く天界の愛と幸福をつかみ取るので、このようなことを思いわずらうひまはありません。
 スウェーデンボルグはその著作で、大人と同様、なぜ子供がこの世の生命を終えて、霊的ないろいろな発達段階の中で目覚めるのか、このことについて深い洞察を展開しています。私たちはしばしば、「まだ死ぬには早かった」と言います。しかし、その死の時は、神の摂理にあって、つねに正しいのです。人がこの世で他人のために何かをするというその人の成長にとって、また来世で他人のために何かができるというその人の霊的成長のために、その時は正しいのです。
 もちろん、私たちはどうしてその時が正しいのか分らないでしょう。それで悲しみ、疑問に思うのです。神だけが、私たちにとって、この世で、さらに引き続き来世で、最もよいことが何であるかをご存知です。これは、神が子供の死を望まれたり、引き起こされたりすることを意味するのではありません。(「この小さい者の一人が滅びることは、天界のあなたがたの父のみこころではありません」(マタイ伝 18:14))。けれども神は、ご自分の望まないことが起こることも許されます。私たちの自由、私たち一人一人の潜在的な霊的可能性のためにです。
 主だけが、子供にしろ大人にしろ、この世を離れて霊界に行くのにちょうどよい時とその理由をご存知です。無知である間は疑問に思い、疑うかもしれませんが、主だけが、この世で「否定的なもの」をご自分の霊の御国で究極的に「肯定的なもの」へ変えることができます。
 スウェーデンボルグは、私たちの直接の行動や人格の影響を通じて、私たちはお互いに何ができるかという、そうした「時」を決定するのは私たちである、と述べています。けれども、私たちの役立ちは私たちの自覚を超えたものです。それで、「不慮の死」というものが、もしかしたらちょうどよい「時」かもしれないと知るのは難しいことなのです。”

    (ブルース・ヘンダーソン「スウェーデンボルグの死後世界」たま出版より)

 

 

 “幼児の周りには天使がいつもいて保護しており、幼児の時に死ぬことがあっても、一人残らず天界に入る。”

 “敬虔な両親から生まれようが、不信心な両親から生まれようが、洗礼を受けようが受けまいが、子供はすべて天界に入って天使になる。”

     (高橋和夫「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」PHP研究所より)