天恩郷と明智光秀 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・天恩郷と明智光秀

 

 “聖地天恩郷にあった亀山城は、元亀天正の築城の名人と言われた光秀の築造したもので、天下五城の一つであった。七年間は明智の有であったが、その亡き後、豊臣時代にはわずかの間に七八人も城主が替わっている。石田三成もその一人である。維新当時の城主は松平信正で、松平家は寛延二年から明治二年まで百二十一年間ここを居城としていた。明治二年六月に亀山を亀岡と改称したという。

 この亀山上の初代の城主で、主殺しの汚名を着てしまった明智日向守光秀とは一体どんな人物であったのであろうか。「武家閑話」に「明智日向守の逆心は、心から起こらず、皆信長のなされたる事なり」と出ているが、信長はどういう訳か衆人環視の中で再々光秀をこっぴどくいじめつけている。

 ある酒宴の席でのことであったが、大盃を手にしていた柴田勝家に対して、その盃を光秀にさせと信長が命じたが光秀は「仲々御免候へ」と辞退すると、信長は無理にも呑めといって光秀を押し潰せに押さえつけて脇差を抜き「酒を呑むか、この脇差を呑むか」と折檻している。信長という人間は随分我がままな乱暴者であったらしい。光秀は当時の博識にして殊に故事に通じ、名分に明らかな名将であって、その一門郎党には賢才名士貞女烈婦枚挙にいとまない程で、この光秀が主殺しを決意したのであるからよくよくのことであったに違いない。

 「千利休が光秀である。聡明な光秀は、たとえどんな事情があったにせよ、いったん主殺しの汚名をきた者が天下の将軍となっても永続きせぬこと位は承知していたので、秀吉と妥協して勝ちを彼に譲ったのである。そして頭を丸めて茶坊主となり、四畳半の中で天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位まで押し上げたのである。実に彼は秀吉の好参謀であったのである。英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人には分からぬ」と聖師様はおっしゃっている。言論自由の時代、光秀の正史が世に出ることを希望する。(O)”

 

              (「神の國」昭和27年7月号 『光秀』より)