・スペイン風邪を封じ込む
“この夜八時、王仁三郎は金龍海に棹さして神島に渡った。供はただ独り、前日に松江から初参綾した井上留五郎(四十四歳)医師である。
大八洲神社に祈願をこめた後、王仁三郎は自ら船をあやつって夜の金竜海上をゆるゆると巡る。柔和な細面、頬から顎へ垂れる髯。大学帽をかぶれば、ちょうど大学目薬の広告の男そのままと思える井上は、礼儀正しく船上に座し、王仁三郎を仰ぐ。
影と月光とが互いに刻みあげた巨大な塑像のように、王仁三郎は立っていた。船はあきずに水をわけ、沈黙の二人を乗せてすべり続ける。
「明日から七十五日、わしは寝込むのや。これは神界から命じられた行やさけ、わしの体の心配はいらん。しかし、とばっちりを受けてやられる者がまわりにできるやろ。しばらく、井上はんにおってもらいたいのやが……」
思いがけない王仁三郎の頼みであった。直ちに井上は、東京へ立ち寄る予定を捨てて答えた。
「はい、今月末頃までは……けれどもとばっちりとは何のことです」
「風邪や。悪い風邪が世界中に流行っておる。何十万と死者が出る。日本にもこれからどんどん広がるで。霊的に言えばドえらい力を持った悪霊群が襲ってくることになる。わしはその邪霊の親玉をつかまえて、わしの体に封じ込めねばならんのや。
けれど奴らの眷属はバイ菌をふりまいて暴れよるやろ。井上はん。悪質の伝染病の病気いうもんはなあ、現象面だけを退治してみても、一向に衰えさすことはできんのや。体の原因である霊を何とかせなならん。つまりバイ菌を殺すことだけに躍起になっておっても、本当の完治はできん。恐ろしい流行をせき止めるにはまずつけ入ってくる邪霊群を潔める必要がある。
邪霊ゆうてもなあ、今度の戦いで死んだ者がほとんどやさけ、救うてやらねばならんのや。それがわしの行となる……」”(P283~P284)
“流行性感冒の世界的流行は何度かくり返されたが、大正七年から十二年までの五年間にわたって日本を占有したそれは、その規模の大きさ、死亡率の高さに於いて有史以来のものであった。
大正七年五月、スペインのマドリッドで発生、世界に蔓延したので「スペインかぜ」と呼ばれ、インフルエンザの名もこの時から用いられた。日本では早くもこの年の八月に発生しているが、王仁三郎が摑まえた(?)のは九月も半ば頃であった。流行性感冒と断定されたのはようやく十月に入ってからである。
全国の新聞は米騒動につづいて流行性感冒の猖獗(しょうけつ)をしきりに報じ、まさに悪魔の襲来を思わせた。全世界の発病者推定六億人、死者二千百二十九万人、日本では発病者二千二百八十万人、死者三十九万人を算している。
大阪朝日の大正七年十一月十一日夕刊でも、市内各所の火葬場が満員で、一週間余りも焼き遅れ、死体の始末に困って、汽車や船で続々と郷里へ運ぶ騒ぎを報じている。
このスペインかぜ以後の流行性感冒は一般に軽症で、死亡率もきわめて低いのは、病原菌の性状が変化したためではないかと学界では推測される。
七十五日の行中の王仁三郎に、やがて本格的な苦しみが襲ってきた。痛いの熱いのとわめき散らし、のたうちまわるばかりで、医者もいっさい受けつけない。
「また大袈裟な人やさかい、ほんまの病気やらどうやら分からへんわな」
澄は持て余したが、直の心配は一通りではない。擂鉢に一杯のお土を練って、王仁三郎を丸裸にさせると、手ずから高熱を発する全身にくまなく塗り出した。
「教祖はん、そんなことをして、いやじゃい、いやじゃい」と言って、王仁三郎は駄々をこねる。直はかまわず真剣な顔で頭から顔、腹へとお土を塗り続ける。あまり「いやじゃ、いやじゃ」と言ってころころ転げまわるので、たまりかねて傍の役員たちに命じた。
「みんなで来て、先生を押さえとっておくれなされ」
役員や澄に手足を押さえつけさせ、直はとうとう足の爪先まで一面に塗りつけ、さらしでくるんですっぽり蒲団をかぶせた。
「皆さんに頼んでおきますが、先生が何と言われても、このお土が乾いたら、わたしが今つけたようにしてべったりお土を塗っておくれなされよ」
直の言葉に、王仁三郎は半泣きの顔を出し、三つ子が甘えるように訴える。
「教祖はん、あんまりや。これ見なはれ。まるきり土だるまや、かなわんわい」
「先生、しばらくの間でありますで、今度はこうしてお神徳(かげ)をもらいなされよ。わたしはいつ国替えしても、もうだんないけれど、あんたやお澄がどうぞありたら、どうもならぬ。これからが大望でありますで、『わたしは寿命を縮めてでも』と言うて神さまに願うております」
「そんなのいやじゃい、そんなのいやじゃわい」
王仁三郎の駄々は一層高まり、泥まみれの顔をくしゃくしゃにしてどうやらすすり上げている。”(P327~P329)
(出口和明「実録 出口王仁三郎伝 大地の母 第12巻」あいぜん出版より)
(出口王仁三郎と井上留五郎)