社会有機体の三分節化運動〔R・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・社会有機体の三分節化運動 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 「精神生活の自由」 「法のもとの平等」 「経済活動における友愛」

 

 “文書として出版された「覚書」の中で、シュタイナーは次のように述べた。いまだに続いている戦争の原因は、個々の国家の攻撃性にではなく、各国家の中の政治、経済、文化のそれぞれの利益集団が危険なまでに融合していることにある。この政治、経済、文化(精神)という三つの生活領域を独立した「節」として社会を形成しなければならない。そして、その社会は諸民族を分け隔てるのではなく、相互に結びつけるものでなければならない。そうする以外に、さらなる世界危機を阻止する道はない。ドイツとオーストリアの政府は、このような意味での社会改革を「和平の目標」として告知すべきである。そうすれば、さまざまの感情が渦巻くなかで、世界は中部ヨーロッパの諸民族をもっと理解をもって評価するようになるだろう。ロシア(二月革命以後の混沌の中で、厭戦気分が非常に深まっていた)では、そのような和平宣言はとくに意味のある作用を引き起こすだろう、というのである。”

 

    (フランス・カルルグレン「ルドルフ・シュタイナーと人智学」水声社より)

 

 

 “この《三層化運動》の根本思想は、人間の社会生活は意識的に分割される場合にのみ、健全なものになることができる、ということである。自立的存在となった人格は、もはや国家の全能を承認することができない。労働者の労働力は商品化されてはならず、国家や経済のあらゆる機構は、働く人間の尊厳を侵害してはならないのである。シュタイナーによれば、こうした目的を達成するためには、国家と経済と精神的生活を互いに分離する必要がある。

 

一、過去の国家は(1919年以降に生まれ、その一部は既に消滅してしまったすべての全体主義国家はとりわけ)、国家に与えられた限界を踏み越えてしまったし、今も踏み越えている。公法に基づく法治国家が力を及ぼす範囲は、本来の性質からして、政治的な生活や市民を対内的にも対外的にも守るという課題に限定されるべきである。生活保護法、労働権法から、その機能を果たすのに必要な制度(警察、軍隊)を持つ刑法までは、国家の手によって管理されるべきであろう。しかし、その範囲を越えてはならない。国家においては、すべての人間に平等が適用される。

 

二、しかし、国家自体が経済活動の統括者であってはならない。経済活動は、多くの人々が、究極的にはすべての国民が携わる、ますます大きくなる広範囲にわたる業務活動なのである。国家が経済活動の運営を統括するのは、必要やむをえざる場合に限られる。つねにそうあってはならない。国家は経済活動に関与してはならないだけにそれだけ一層経済のプロセスに参加する「すべて」の者が、生産者と消費者によって構成される組織を通じて、共同して活動しなければならない。この分野では、感傷的でないような友愛が必要である。

 

三、そして最後に国家は国民の精神生活を監督指導してはならない(この点に関しては、ヨーロッパよりもアメリカの方がはるかに進歩している)。あらゆる種類の芸術、学問(学校も含む)、宗教に対して自由が保障されねばならない。

 

 精神の自由、法の前での平等、経済活動における友愛、これによってルドルフ・シュタイナーはフランス革命の古い理念に、新たな現実的な内容を注入した。

 彼はこの三層化の理念を、綱領通りに、必要な場合は暴力によって世界に実現させようとするイデオロギーとは決してみなさなかった。

 そうではなく、現実の事態そのものが、このような形での社会機構のシステムの相互分離を必要としていたのだ。それゆえ、シュタイナーにとっては、人々が事態をこうした意味で正確に理解するか否かは、自覚にかかわる問題であった。

 彼の死後の数十年間は、彼の意見の正しさは広範囲には認められなかったのであろうか。

 1919年には、ルドルフ・シュタイナーは成果を収めなかった。数名の非常に活動的なパイオニアたちによって推進された三層化運動は、まもなく、企業家のエゴイズムと専従組合員の不信感の渦の中に巻き込まれてしまう。自由な洞察と善良な意志の上に成り立っていたものが、真に新しいことには取り組もうとはしない政治家たちの政争の具になってしまった。シュタイナーは、次々に彼の協力者を呼び戻した。そして、社会問題解決のためのこの世界史的な試み……そう私たちは考えるのであるが……に終止符を打った。未だ、時が熟していなかった。しかし、仮に、その端緒において成果を得ることができないからといって、社会的な実験は無益であるだろうか。端緒における挫折は、ある理念にどのような現実性があるかということに対する最終的な解答を出すとでもいうのだろうか。そんなことはありえない。”

 

  (ヨハネス・ヘムレーベン&アンドレイ・ベールイ「シュタイナー入門」人智学出版社より)