綾部市、熊野新宮神社 (全国総産土神社) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・綾部市、熊野新宮神社 (全国総産土神社)

 

 “開教六十年大祭に総産土神社である熊野神社参拝があった。国祖の御出現に際して、真っ先に熊野権現が馳せ参じ、神命によって全国の産土神に国祖の御経綸を知らせ、神業参加を説いた、という意味のお筆先があるが、そういうところから産土神の総取締りという意味で、総産土の大神と申し上げる。

 「氏神様さまの庭の白藤、梅と桜は出口なおのお礼の庭木に植えさしたのであるぞよ。白藤が栄えれば綾部よくなりて……」云々とお筆先にある通り、熊野神社と大本とは深い関係がある。この熊野神社のことについて、聖師は次のようにおっしゃっている。

 「太古に素戔嗚尊が出雲から出て来られた時に、本宮山(鶴山)の上に素戔嗚尊の母神である伊邪那美尊様をお祀りして、これを熊野神社と名づけられた。その後、素戔嗚尊は紀州に御進発になり、紀州にもまた神宮、本宮、新宮という熊野三社をお祀りになったのである。本宮山にあった熊野神社は、九鬼家が伊勢の鳥羽から転封して綾部に移り住むようになった時に、現在熊野神社のある和知川べりにお遷し申し上げたのである。その当時は九鬼家の館が、やはりその熊野神社の裏にあった。元来九鬼家は二万石の小禄であったので、城をきづくことができなかったため、邸を建てていたのであったが、火事で焼けてしまったので、当時村民たちは『熊野神社を下に遷したから神罰で焼けたのだ』と言ったり、『焼け屋敷』など呼んでいたものである」

 古文書によると、熊野新宮神社は、伊邪那美命、事解男命、速玉男命を祭神とし、古く本宮山の東麓にあったのを九鬼隆季公のとき現在の地に遷し、ついで子隆常公は寛文十年三月、社領として三石五斗一升の地を奉納した、とある。

 綾部藩の記録の中には、新宮之神社は熊野権現にてまします。すなわち此処は昔、平重盛卿領地たりしによって勧請し、不時の詣をなさまほしく、景色の清き所を選び給う、とも記されてある。”

 

               (「神の國」昭和27年12月号 『総産土神社』より)

 

 

 “大本発祥に際して、熊野さんは最初のご用をされた神である。お筆先にも、熊野さんと一宮さん(福知山)には御礼致すぞよとのお言葉が出されている。

 明治二十五年に神がかりがあって後、開祖は艮の金神のご再現を全国に触れ回るように総産土神社として熊野さんにお願いした。それから三日後「海の底にも聞こえました」と竜宮の乙姫さんが艮の金神に竜宮の宝を献上して、神業に参加することを願い出てきた。それが改心の第一番目であった。開祖は「お待ち受けもうしておりました」と答えられた。その時つくま明神がお待ち受けしておられたという。大本はそれから開けていったのである。

 熊野さんと大本との因縁は、大本発足以降のことだけではない。それ以前にも、深い因縁があったのである。素戔嗚命が出雲からお越しになられて、この地に立ち寄り、本宮山に母神の伊邪那美命を祀られたのが熊野さんの始めである。素戔嗚命は、ここから紀の国へ旅立たれた。このような古い因縁があるのである。

 開祖は熊野さんをはじめ綾部の産土神社へのお礼参りをされるようになった。七社参りは若宮さんから始まって二宮、三の宮と続き、最後が熊野さんである。夕方から始まって、明け方までかかった。

 聖師は、熊野さんの水無月祭には必ず綾部にお帰りになった。また全国に建てられた聖師の歌碑では、熊野さんに建てられたのが一番最初である。

 また聖師は水無月祭には本宮山に櫓を組んで提灯をつけられ、大の字を描かれた。遠くから見えるためには相当高い櫓を組まねばならなかった。また現在水無月祭の行事になっている万灯流しは、聖師が竜宮さんに献納されて和知川に流されたのが始まりである。綾部町史には万屋が客寄せのために流したと書いてあるが、本来は聖師が二十八燈流されたのが最初である。明治四十年頃だったと思うが、今はっきりした記憶はない。したがって世間の精霊流しとは全く違う。川から海に流し、竜宮さんにお供えしたのである。”

 

            (徳重高嶺「松のよはひ」大本信徒連合会より)

 

 

徳重 私が入信した頃(大正九年)から引き継いで指導していることは、綾部の大本にお参りしたら、必ず産土さまにご参拝するように、信者さんに案内することです。大本信者は、産土神の取持ちによって信徒になってきているわけですから、産土神を大事にしなければならないと思うのです。

 

―― 事件中、二代様が天王平から信者さん達の神霊が熊野神社に避難するという夢をごらんになったそうですね。

 

徳重 そうなんです。その夢は大阪の未決でみられた夢で、信徒のお墓は壊されるし、大変なときでした。夢の中には十曜の神旗を中心に松村真澄氏を中心に大勢の神霊が隊伍を組んで熊野神社にお移りになったということです。

 

         (「愛善世界」№44 『熊野神社と人型大祓い神事』より)