出口聖師と月の輪台 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・出口聖師と月の輪台

 

 “忘れられない昭和二十二年九月の始め、亀岡はいちばん陽気もよく、当日は少し汗ばむくらいの天気であった。お昼休みを利用して、出来上がったばかりの月の輪台の坂道を一人ふらりふらりと登り、瑞祥館入り口の門の前まで行くと、門は完全に開けられ、その中央に聖師様が御一人、毎日礼拝するお写真と同じように、門の額に全身が納まった形で立っておられた。私の足は一瞬にして止まってしまった。

 聖師様にはところどころに日月を染め抜いた白地の着物を細紐にて留められ、両手は腰のあたりにて「く」の字に曲げられ、フェルト用の鎖をチョッカケられ(当時のご様子から拝すれば完全にはかけることが出来なかったと思われる)、御足は五センチか十センチ位の歩幅で長い時間をかけられ一足一足運ばれて行く。この調子ではお部屋から此処までは一時間以上は費やされたと思われる。お身体は言葉にならないほどお疲れのご様子ではと見受けられた。お額には微かに紅がさし、今にも笑い出しそうな温顔であるが、眼光の鋭さは驚くばかりで、月の輪台方向一点に注がれていた。

 ところがである。そこへ聖師さまの外出に気付かれた側近にお仕えの二人の女性(今はお二人とも故人となってしまわれた)が、慌てた様子で履物もはかず飛び出して来て、聖師様を両側より抱え、「お身体に障ります。どうぞお部屋へお戻り下さい」と、すがるように申されている。聖師様は大きくは動けないご様子でしたが、その手から逃れるようにもがかれ、突然ひじ鉄砲でグッとはねられた。不意を突かれた二人は玉砂利の上にすね丸出しで尻もちをつかれた。だが二人とも一生懸命、立ち上がると裾の乱れも直さず前以上にお部屋へお戻りになるようお願いしている。聖師様には先の温顔は消え失せ厳しい顔へと変わられた。お口はさかんに動かされているが、お口に泡をふくまれ、お言葉が出ないご様子で、さらに厳しいお顔になられた。しかし、もうそれ以上はどうにも出来ないようなご様子であった。そうした中にも御眼は月の輪台の一角に向けられ、横などは一度もお向きにならなかった。結局は二人の側近に促され、とうとうお部屋にお連れになられてしまわれた。この時聖師様は何をなさろうとされたのか、未だに私には分からない。

 今思えば、たった一時間にも満たない出来事であるが、私の知る限りでは、聖師様がお部屋から外に出られたのも、これが最後であったと思われる。もちろん私としても最後のお目通りとなった。聖師様はなさろうと思われたことの中断を余儀なくされ、その後はもう御面会も出来なくなり、明けて二十三年一月、ついに神界にお帰りになり、二代様の代へと変わって行った。

 因みに後日、私は聖師様の御足跡の処にたたずみ、顔を聖師様のそれと同じ方向に向けると、ちょうど月の輪台の御霊石の辺りに注がれていたことが分かった。”

 

      (「愛善世界」№180 大須賀福次『聖師様と月の輪台』より)

 

 

 “この「月の輪台」は天恩郷において、聖師による最初でまた最後のご造営所。聖師は大正8年末、亀山城跡を入手、同14年「天恩郷」と命名、神苑建設の第一着手として月照山(船岡山)の整地にご専念になり「月の輪台」を築造。また第二次大本事件後も、破壊し尽くされた天恩郷の再建を「月の輪台」の石積みから始められた。昭和21年8月25日、石積みは完了。ところがその翌日から体調をくずされて1年あまりのご静養の末、昭和23年1月19日にご昇天。出口すみこ二代教主は同年正月の夢で、聖師居室から、大きな美しい月が「月の輪台」に移るところをご覧になっている。”

 

           (大本教学研鑽誌「まつのよ」第八号より)