かくれキリシタンと大本 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・かくれキリシタンと大本

 

 “聖師さまがかつて、台湾ご宣教からのお帰りに、汽船が遥か五島列島の沖合を通過された午前三時ごろ、「あれにかくれた灯が見える。お前らにはあの光が見えないか!」と叱るように申されたと聞いています。

 多分聖師さまは例の如く、漁火ならぬ心の灯を霊眼でご覧になられたことでしょう。普通人には、島影さえも容易に見えたかどうか。

 

 それから半世紀、昭和三十六年十月、大本五島分苑が誕生した。玉ノ浦部落のカクレキリシタン約四十戸が、集団で大本に転宗したのだった。当時、世界宗教史にも稀なケースとして全国マスコミの話題をさらい、テレビ、ラジオをはじめ大小新聞、雑誌記者など四十社が押しかけた。いよいよ開苑式ともなれば、町民はもとより内外名士たちが参列、新築の神殿にあふれるという大盛典だった。信者等の漁船は満船飾で湾を埋めた。海に陸にどよもす歓声は、さながら壇ノ浦の源平戦を思わせるのだった。

 

 五島のカクレキリシタンは概ね大村藩のキリシタン信者だった。厳しい幕府の迫害を逃れて五島へ、遠島へと、いのちと信仰を守って逃れた領民であり、子孫たちである。(大村純忠公はキリシタン大名で有名だった)

 彼等の最も恐れたのは「密告」だった。もし信仰が知れたら一家皆殺しにされた。幕府の狼のエサになることを怖れて表面仏教徒を装いつつ信仰した。……

 恰も大本信者が、かつての弾圧に仏徒を強いられつつも隠れて大神さまを拝んだ如く。カクレほど長くはなかったが……。

そしてカクレ大本が邪教でなかったように、カクレキリシタンも真の神を信ずる正しい信仰であった。

 

 元々カクレ教という宗教はなかった。地球の艮(うしとら)におかくれになったから艮の金神の名があるように。それでいて今のカクレはカトリックにも非ず、プロテスタントでもない。勿論仏教とは根本的に異なる。言うならば大本そっくりと言って差し支えない。私は「カクレという名の大本だ」と思っている。畏くも国祖ご隠退の折、共に地に落ちた部族の片割れか?しかも国祖のご再現を知らないまま眠り続けているのではあるまいか。

 故に仏教も、キリスト教も外来宗教として彼等の肌に合わないらしい。とか言って日本固有の神道に対しても魅力を感じないのは何故だろう?

 按ずるに彼等は曲りなりにも既に「真の神」というものを肌で味わっている。日本民族の祖神、皇大神宮様では何となく落ち着きがないらしい。外国宗の嗅味はあるが、むしろキリスト教の神の方が、より高い天御中主大神(創造神)に近くて、神の国日本人の信仰にふさわしいと思っているのである。

 

 彼等が迫害にたえて、尚仏教にもキリスト教にも動こうとしないもう一つの理由として、死後の問題があると思う。彼等は神観の相違から?習慣か、葬儀をはじめ、追善供養にも魚を主とした山海の珍味を膳として供える。毎朝家族の食べる同じものをお給仕するのも大本と全く同じである。死んだが最後、好きな魚もご飯も、湯水も供えてもらえぬ宗教に行ったらどんなにか寂しいことだろう。先祖様のひもじい思いが現身にこたえてくる。餓鬼のいる霊界は地獄にきまっている。恵まれない彼等は、せめて死後だけは……と願っているのである。

 

 然し見渡す宗教の中には、彼等の希む、宇宙最高の神様が拝めて、死後は現界と同じように人間味のある取り扱いを受ける宗教はないものと諦めているのかもしれない。彼等の子どもたちは、せめて年寄りたちの一代は……と孝心を温めつつ、年寄りたちの両眼の閉ずる日を待っているのである。そして葬式と共に何れかの宗教の門を考えているのであろう。

 

 私自ら五島に生まれ、カクレキリシタンの流れを汲む者、祖父(母方)はカクレから養子に来た人と聞いている。お道では教え方の役だったから多分それが買われたのだろう。父方は神道系、父の従兄は代々村の宮司だった。私が神さまを好きになったのも父の真似をしたかったからである。父は神さまが好きだったようだ。無言の裡に教えられたように思う。ご神諭に「因縁の身魂は天界で調べあげているから、神が引き寄せてご用に使うぞよ」とあるのを見て、私如きでも……と思うと胸が熱くなる。力のない私は申し訳ないが、代わりの身魂を探し出して大御心に応え奉るのが私の使命だろうと思っている。”

 

           (「おほもと」昭和49年11月号 川上覚邇『かくれ灯』より)