今に残る出口聖師の画室(亀岡市 関酒造内) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・今に残る出口聖師の画室 (亀岡市紺屋町 関酒造内)

 

 “(人類愛善会)総本部の所在地、亀岡市の紺屋町にある井筒源こと関酒造有限会社(関一社長)が、このたび、出口直日 本会総裁(大本教主)銘の新酒「木の花桜」を売り出した。口あたりのよい、おいしい地酒で、売れゆきも好調。関さんは、本会の会員、大本信徒に「御神酒として求めてほしい、地方発送もいたします」と言っている。

 関家は、亀岡の代表的地酒「古春」の醸造元。先代の社長・関源吉氏は、大の王仁ファンで、自分の屋敷の一部を王仁師の画室に提供したり、王仁師の馬の世話も引き受けるなど(特に、王仁師の白馬は、関氏が全国をさがしまわって求めてきたもの)、交流が深かった。源吉氏にとって、王仁師は友であり師であり、なにより親父(おやじ)のような存在だった、と家人は言う。

 王仁師が関氏の屋敷内に建てられた画室(二階建 = 一階は応接間、居間、二階が画室。画室は八畳、六畳、六畳の三間。大作制作の時は三間あけはなした)は現在は物置になっているが、第二次大本事件前の王仁師の唯一の遺構といえよう。

 関氏が、このたび、出口直日師に新酒の銘を願い出たのは、先代源吉氏の遺志を果たすため。源吉氏は生前中の王仁師に酒銘をいただくのを、うっかり忘れていたのを晩年、よほど残念がり、時々、ため息をついていた由。(源吉氏は昭和三十五年七十六歳で昇天)

 直日師は、源吉氏の純情に感動され、心に秘蔵されていた「木の花桜」銘をおくられた。木の花桜は言うまでもなく直日師発見の山桜の新種で、師の分身のような桜。師が、この銘を関氏におくられたのは、よくよくのことと思われる。

 関一社長の感動は大きく「新銘酒『木の花桜』の醸造は、あくまで手造りを貫きたい。醸造米も、王仁師ゆかりの穴太米で」と、記者に顔を紅潮させて語った。”

 

    (「人類愛善新聞」昭和53年6月号 『王仁師の大作の生まれた家』より)

 

*この関酒造さん、そして御神酒「木の花桜」のことは、関酒造がご実家である 心咲ろあ♡roa misakiさんに教えていただきました。聖師様だけでなく、帰神前の開祖様もここへ機織りをしに来ておられたことがあるそうです。

 

・神の米、穴太米(あなおまい)とは、

 〔瑞穂神霊〕

 “神勅が下つたので穴太の郷は瑞泉郷と命名せられ宮垣内の跡は瑞泉苑と名づけられ、そこに「瑞穂神霊」の四字を記されたる大石碑が建つのである。玉の井の水に育くまれたる瑞穂の稲は全国中最も秀でたるものにて、灘の生一本は、この米によつて醸造せらるるのであるが、今後瑞泉苑の神業として、この瑞穂の種が全国の信者に頒布せらるるのである。この事は神代の昔よりの約束事であつて穴穂(後世穴太と転訛す)の地名のよつて来るところである。

 大本の歴史をひもとくものは誰もが知つて居る如く雄略天皇の二十二年戊午(つちのえうま)の年、天皇の御夢により豊受大神様が伊勢の山田にお遷りになる時、途中上田家の庭内即ち宮垣の里が其御旅所に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで鄭重に斎きかしづきしが、其時御神霊に御供へせし荒稲の種子が、欅(けやき)の老木の腐つた穴へ落ち零れ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、其稲に美はしき瑞穂を結びたれば、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎ奉つて、所在の良田に蒔きつけ、千本と云ふ名をつけて四方へ植ゑ拡めたのが穴穂の里の名の起つた始まりである。最初は穴穂と書いたのが後に穴生となり、穴尾となり、更に今の穴太となつたので西国二十一番の札所、菩提山穴太寺の院主は代々今に至るまで、穴穂の姓を名告(の)つて居るのであるが、其穴太の瑞泉苑より種子の頒たれると云ふ事は有意義な事である。”

 

      (「玉鏡」より)