神聖神社の謎(昭和神聖会の霊的中枢) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

昭和神聖会は、1934年(昭和9年)7月22日に東京・九段の軍人会館で発足した、大本系の救国運動を目的とする団体。統管は、出口王仁三郎、副統管は、内田良平と出口宇知麿。1935年(昭和10年)第二次大本事件により王仁三郎が投獄されてからは活動は停滞、休止した。

 

経緯

出口王仁三郎は1924年(大正13年)2月、第一次大本事件による責付出獄中に日本を脱出して、モンゴル地方へ行き盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動するが、同年6月パインタラにて張作霖の策謀により落命寸前の危機となる(パインタラの法難)も、王仁三郎とともに活動した植芝盛平を始め、日本人6人は無事難を逃れ、翌月帰国する。

 

この間、黒龍会の内田良平と親交。内田はのち昭和神聖会の副統管になる。

 

1934年(昭和9年)7月22日、軍人会館(現:九段会館)において、社会運動の団体「昭和神聖会」を結成。宣言文は以下のごとくであった。

 

大日本皇国の天業未だ途にありて内外稀有の不安に会す、寔に憂慮に堪へざるなり、惟ふに是れ天地の大道、皇道の大精神を忘却せるに由る。茲に於て 天祖の神勅、列聖の詔勅を奉戴し、大義名分を明かに、百般の事象を究明して、世道人心を正し、至誠奉公神洲臣民たる天賦の使命を遂行し以て聖慮に応へ奉らんことを誓ふ。右宣言す。

 

賛同者は800万人を超えるなど、幅広く様々な活動を展開するが、当局は出口の意図を、国家転覆とみなし、1935年(昭和10年)第二次大本事件により再び投獄。なお第二審判決では重大な意味を持つ治安維持法違反について無罪、1942年(昭和17年)に保釈出所。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945年(昭和20年)10月17日には、敗戦による大赦令で無効になった。

 

            (以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 

 

 神聖神社とは、出口聖師の命により、昭和十年二月に昭和神聖会の霊的中枢として、亀岡市瑞泉郷内に建立された神社です。鳥居を含むすべてが石造りの宮でしたが、第二次大本事件で官憲により破壊され、地上から抹殺されました。

 

 

・抹殺された神聖神社

 

 “この神聖神社のご神体は、玉と鏡と剣であった。玉と鏡はむかしから大本にあったものであるが、剣はもろ刃であって、長さは約七~八寸のものである。しかもこの剣には菊の紋様の銘があり、一般の社会にはないものである。この剣はどこからでたものであるかというと、二つの説がある。一つには大宮守子女史が献納したものという説と、今一つは上田よね刀自(聖師様の母)が秘蔵されていたものとの説である。従って、この剣をめぐる問題は、いまなお多くの研究材料でもある。

 ここで、三種の神器類似のご神体が、なぜ神聖神社のご神体とされたかという問題であるが、この件に関しては大本事件の中で一応解決している。事件中、京都の裁判所において、不敬の材料として三種の神器を祀っていたかということで、裁判長が尋問したときに、聖師さまは私に答弁するよう命じられた。そこで私は、「それは三種の神器ではありません。普通にある玉と鏡と剣であります。玉は水晶であり、鏡はむかしは一般の名門にあったものであり、剣はもろ刃ですが、寸法も短い古い時代の女性の守り刀として持っていたものであります」と答弁した。裁判長は皇室にある三種の神器に該当すると考えていたものであるが、皇室の三種の神器とは似ても似つかぬものと答弁して、裁判長と一種の議論の如き問答となった。本来、八束の剣というのは、聖師さまの説に従えば、人のにぎりこぶしの長さをひとつかみとして、それを八つつらねた長さが八束の剣の長さである。また、八咫の鏡は八つの花弁をひらいた形のもので、神人は胸にさげていた。玉は勾玉で、これをつらねて肩からかけていたものである。神社などに祀るのは丸い鏡で、玉は水晶かその他の宝石で丸くし、剣の寸法は短いものである。皇室の三種の神器と類似などと想像するのは実際を知らぬ架空のもので、神社のご神体などとはまったく見当違いであると説明されている。それがため私は裁判長に、三種の神器を見たり、あるいは写真にとってあり、それに類似しているものであれば問題でもあろうが、むかしから誰も見たものもなく、三種であるから三種の神器というのであれば、一般の古い神社、または古代の葬送具にはいくらでもそれに類似したものがあり、それらを三種の神器というごとき想念をもつことはそれこそ不敬にあたる想念だと、聖師さまが戒めていたことを陳述した覚えがある。

 従って、神聖神社のご神体は三種類あったのであるが、それは三種の神器でもなんでもない。一般神社にある神器と同じなのである。ただ、その中のもろ刃の剣が問題となる。この剣は普通一般に無いもので菊の紋様が入っている。一説には、鶴殿男爵の夫人、大本宣伝師としては大宮守子と名のる婦人のことである。大宮女史は、照憲皇太后とは姪の関係にあり、かつて大本に十二の鶴石を納めた人であって、古い大本の神歌の中にも名が載っている。殊に亀岡の天恩郷へは幾度となく参拝し、聖師さまと面会して帰っていた人で宣伝使大宮守子の名は一般に知られている。この大宮女史が持ってきたものの中の剣には菊の紋様のついているものが一つ二つあったのである。かつて大宮宣伝使は聖師さまと相談し、私を伴い、京都において宮家の若君や姫たちなど二十七、八人の若い高家の方々に、皇道について講話せよと某家に連れて行き、二時間にわたって講話をさせられたことがある。その後、幾度となく面会し、明治天皇の御衣だといって、寸法の大きい私にはどうにもならぬ着物を一着頂戴したことがあり、聖師さまに相談した結果、桐の箱におさめ高天閣の奥に秘蔵して置くことになった。しかし、その後大本事件によって官憲の手に押収され、その後どうなったか判らないことになっている。従って、大宮女史とはいろいろなつながりがあり、大本事件後一度面会したいとたずねたが、消息をつかむことができなかった。ただ、保釈出所後大阪に居住しているとき、鶴殿家をたずねたが面会できなかった。しかし、その後ある人から聞いた話では、ある茶席に招かれて、その夜より血を吐いて昇天されたという、噂とも想像とも判らぬ話を聞き、また大本事件には、同女史が暗躍されては困ることになるので、その筋の手によって闇から闇に葬られたという噂も耳にしたので、同宣伝使の兄君が熱海に隠棲していると聞き、某女官が熱海で老後、旅館を経営していることを知り、知人の手引きで女将をたずね、大宮女史の兄君に面会してたずねた。ところが「ちか子(本名)のことについては一切語ることが許されない。どうぞちか子のことはいわないでほしい」と、眼に涙を光らせて懇願されたので、それで、その後は一切大宮宣伝使のことは調べなかった。しかし、宣霊社には祀っておいたので、宣霊社に参拝するたびに思い出して祈っている。大本事件の裏には、いろいろな高貴の方面との関係があったことを、ここでちょっとのぞかしておく。

 神聖神社のご神体の一つとして現在、その剣は事件のときとりだしたものとして、某氏が保存しているものがある。解明されるときも近いと思うが、私としてはこれ以上発表することを避け、後世の人々の研究にゆだねたい。

 いずれにせよ、神聖神社を大本の史実より抹殺されないようにして、出口聖師を研究される人々の一つの資料とされることを望むと同時に、将来瑞泉郷が再建されるときに忘れられては、瑞泉郷の歴史に欠けることになるので、ここに記録してのこしておく。”

 

           (「愛善世界」№4 大国美都雄『抹殺された神聖神社』より)