火力文明の行末 (加具土(かぐつち)の滅亡) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・火力文明の行末

 

 “聖師のご教示によれば伊邪那美命が火の神を産んで黄泉国に入りたまうとの意義は、大地球が火力文明によって死滅するとのことであるという。この世界の大峠をして根本的に救済するのが大本の使命であると言われ、つぎのようにもお示しになっている。

 

 「古事記の御本文に載せられたる『青山を枯山の如く泣枯らし、海河は悉くに泣乾しき、是を以って、悪神(あらぶるかみ)の音(おとなひ)、狭蠅の如く皆湧き、万物の妖は悉くに発(おこ)る』てふ現代の実情である。是を称してムサシノと言霊学の見地からいふのである。誰やらの句にも『武蔵野に一輪咲いた梅の花』といふのがある。此の一輪咲いた梅の花は、仰何を指したものである乎。

 其尊き古事記を実地に活用し奉り、皇神の御稜威を発揮し奉らむと真剣の発動を続けて居る所は、広い世界の所謂ムサシノに一輪咲いた皇道大本より外には無いのである。」”

 

         (「おほもと」昭和45年10月号 木庭次守『東京都の神業』より)

 

 

・「古事記」 ()()具土(ぐつち)の段 

 

 『故ここに伊弉諾命詔り給はく「愛くしき我が那邇妹命や、子の一つ木に易へつるかも」と宣り給ひて、御枕べに匍匐ひ御足べにはらばひて、泣き給ふ時に、御涙になりませる神は、香山の畝尾の木の下にます、御名は泣沢女の神、故その神去りましし伊弉冊神は、出雲の国と伯伎の国との堺、比婆の山に葬しまつりき』 伊弉諾命は即ち天系霊系に属する神でありまして、総ての万物を安育するために地球を修理固成されました、国常立尊の御後身たる御子の神様でありますが、古事記にある如く、迦具土神が生れまして、即ち今日は、交通機関でも、戦争でも、生産機関でも火力ばかりの世で、火の神様の荒ぶる世となつたのであります。この火の神を生んで地球の表現神たる伊弉冊命が神去りましたのであります。この世の中は殆ど生命がないのと同じく、神去りましたやうな状態であります。 そこで伊弉諾命は我が愛する地球が滅亡せむとして居るのは、迦具土神が生れたからであるが、火力を以てする文明は何ほど文明が進んでも、世の中がこれでは何にもならぬ。地球には換られぬと宣らせ給はつたのであります。これが『子の一つ木に易へつるかも』といふ事であります。 次に『御枕べに匍匐ひ御足べにはらばひて』といふことは、病人にたとへると病人が腹這ひになつて死んだのを悔む如く、病人と同じく横になつて寝息を考へたり、手で撫でて見たり、また手の脈をとつて見たり、足の脈をとつて見たり、何処か上の方に生た分子がないか、頭に当る所に生気はないか、日本魂が未だ残つては居ないかと調べ見給ひし所殆ど死人同様で上流社会にも、下等社会にも脈はなくて、何処にも生命はなくなつてゐる。全く今日の世の中はそれの如くに暖かみはなく冷酷なもので、しかも道義心公徳心が滅亡してしまつて居るのであります。それで泣き悲しみ給ふ時に、その涙の中に生りませる神の名を泣沢女神というて、これは大慈大悲の大神様が、地上一切の生物を憐み玉ふ所の同情の涙と云ふことであります。今日でも支那のある地方には泣女といふのがあつて、人の死んだ時に雇はれて泣きに行く儀式習慣が残つて居るのも、これに起源してゐるのであります。 神去りました伊弉冊命は、これを死人にたとへて出雲の国と伯耆の国の境に葬むられたと書いてありますが、出雲といふのは何処もといふことでまた雲出る国といふことである。 今日の如く乱れ切つて、上も下も四方八方、怪しい雲が包んで居るといふ事であります。伯耆の国といふのは、掃きといふことで雲霧を掃き払うと云ふことである。科戸の風で吹払うと云ふのもさうであります。即ち国を浄める精神と、曇らす精神との堺に立たれたのであります。いはゆる善悪正邪の分水嶺に立つたものであります。実に今の世界は光輝ある神世の美はしき、楽しき黄金世界になるか、絶滅するか、根の国底の国、地獄の世を現出するかの堺に立つてゐるのであります。『比婆の山に葬し』といふ事はヒは霊系に属し、赤い方で、太陽の光線といふ意義でバと云ふのは、ハとハを重ねたもので、これは悪いことを指したものであります。即ち霊主体従と体主霊従との中間に立て、神が時機を待たせられたと云ふことであります。かくして伊弉冊命即ち地球の国魂は、半死半生の状態であるが、しかし天系に属する伊弉諾命は純愛の御精神から、この地球の惨状を見るに忍びずして、迦具土神即ち火の文明が進んだため、かうなつたといふので、十拳剣を以て迦具土神の頸を斬り給うたのであります。十拳の剣を抜くと云ふ事は、戦争を以て物質文明の悪潮流を一掃さるる事で、いはゆる首を切り玉うたのであります。 この首といふことは、近代でいへば独逸のカイゼルとか、某国の大統領とか云ふ総ての首領を指したのである。即ち軍国主義の親玉の異図を破滅せしむるために、大戦争を以て戦争の惨害を悟らしむる神策であります。『是に伊邪那岐命、御佩せる十拳剣を抜きて、その御子迦具土神の御頸を斬り給ふ。爾にその御刀のさきにつける血、湯津石村にたばしりつきて、なりませる神の御名は、石拆神、次に根拆神、次に石筒之男神、次に御刀の本につける血も、湯津石村にたばしりつきてなりませる神の御名は、甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神、またの御名は建布都神またの御名は豊布都神(とよふつのかみ)、次に御刀(みはかし)の手上(たがみ)にあつまる血、手俣(たまた)より漏れ出でなりませる神の御名は闇於加美神(くらおかみのかみ)、次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)』 十拳剣即ち神界よりの懲戒的戦争なる神剣の発動を以て、自然に軍国主義の露国や独乙を倒し、カイゼルを失脚させ、そのとばしりが湯津石村(ゆついはむら)にたばしりついたのであります。この湯津石村につくといふことは、ユとは夜がつづまつたもので、ツは続くのつづまつたもので、要するに夜ル続くといふことになります。彼方からも此方からも、草の片葉が言問ひを致しまして、彼方にも此方にも、種々の暗い思想が勃発して、各自に勝手な主義なり意見なりを吐き散らしまして過激主義だとか、共産主義だとか、自然主義、社会主義がよいとか、専制主義がよいとか、いろいろなことを言ふ意味になります。またイハといふことは、堅い動かぬ位といふことで、ムラは群がるといふ意義で、岩とは尊貴の意、村とは即ち下の方の人間の群といふことであります。いはゆるタバシリツクといふのは、鳴り続いて上にも下にも種々雑多の思想や主義が喧伝されてゐることであります。即ちたばしりついて生りませる神といふのは、生れ出ることではなくして、鳴り鳴りて喧ましいといふ事であります。その神の御名を甕速日神(みかはやひのかみ)といふ。 ミは体、カは輝くといふことで、体主霊従の神であります。樋速日神(ひはやひのかみ)は霊主体従の神であつて、両者より種々なる思想の戦ひが起るといふ事であります。即ち主義の戦ひであります。次に建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)は、直接行動と云ふことで、霊主体従国は言向平和神国(ことむけやはすみくに)であるから、滅多にありませぬが、体主霊従国などは皆々建御雷之神であります。即ち露国のやうに、支那のやうに皇帝を退位せしめたり、すべて乱暴をするとか、焼討をするとか、暴動を起すとか、罷業、怠業するとかいふやうな事であります。 建御雷神は天神の御使でありますが、本文の言霊上から考ふれば、ここはその意味にはとれぬ、争乱の意味になるのであります。またの名は建布都神(たけふつのかみ)、または豊布都神(とよふつのかみ)といふのは善と悪の方面を指したもので、凡て善悪美醜相交はるといふことになります。即ちよき時には苦しみが芽出し、苦しみの時には楽みが芽出してゐるといふやうなものであります。 世の中が混乱すればするほど、一方にこれを立直さむとする善の身魂が湧いて来るといふ意味であります。 十拳剣を握つて居らるる鍔元に集まる血といふのは、各自に過激な思想を抱いてゐるといふ事で、血を湧かす事であります。即ち手のまたから漏れ出ることになります。この手のまたから漏れ出ると云ふ事は、厳重な警戒を破つて現はるる事であります。闇於加美神(くらおかみのかみ)といふことは、世界中の上の方にも非常な過激な思想が現はれるといふことであります。 次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)のみつといふのは、水でありまして、下の方即ち民のことで、これも無茶苦茶な悪思想になつて、世の中が益々闇雲になるといふことであります。 この昔の事を今日にたとへて見ますと独逸のカイゼルが失脚したのも、露国のザーが亡んだのも、支那の皇帝がああなつたのも、皆天の大神が十拳剣を以て斬られたのであります。かくの如く神は無形の神剣を以て斬られるのであります。それで人間が戦ふことになるのであります。この殺された迦具土神のことを現代にたとへますれば、爆弾とか大砲とか、火器ばかりで戦ふのでありまして、弓とか矢で戦ふのではありませぬ。軍艦を動かすのも火の力であります。それで大神に依て火の神が殺されたといふことは、惨虐なる戦争が止んだといふことになるのであります。今回の五年に亘る世界戦争の結果は、迦具土神の滅亡を意味してゐるのであります。”

 

             (「霊界物語」第八巻 『言霊解一』より)