音読による霊界物語の解明 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・「生命ある言霊の書」 音読による神秘の解明

 

 “出口聖師(王仁師)はかつて「将来、この物語一章だけの研究を三人がかりで一生かかってやる時がくる」といわれた。物語には二〇四六の章があるので単純計算していくと六一三八人の研究者が常時物語研究にたずさわるということになる。しかしこの言葉について私は長い間どのような研究方法で行うのか疑問であった。文献上からは学者間でも「物語は学問的には対象外の書物」として今日までほとんど顧みられていなかったし、内部の研鑽者においても確かな解釈視点が定まっていない現状だからである。

 しかし、聖師はこのことに対して音読を中心とした研究法を暗示されていたことを最近知る機会があり、その疑問が氷解した思いであった。それによると、まず数人の研究者が一堂に会して、その中の一人が言霊の法則にそいながら、物語の一章を音読する。他の人たちは静かに瞑目し鎮魂の状態で聴く。読み終ると貴方はどう解釈するかとお互いの意見を聞く。そしてまた音読し鎮魂して、さらに意見を聞く。それを何回も繰り返してついにすべての意見が一致するところまでもっていく。

 これは言葉(言霊)の響きを主体におく高度な研究法の開示である。今日一般的に研究という場合、文字そのものの詮索とその構造解明に研究の主目標をおいているが、この音読を中心としたあり方は、そうした従来の研究法と根本的に違うものをもっている。

 日本の言葉は一言多義である。一言に様々な意味と活用をもっている。しかし文字状態では平面的で一言一義を出ない。それを音読することによって言葉は初めて生きものとなる。このことは物語が顕幽一致の法則にそって成立している生命ある「言霊の書」であるがゆえに、さらに重要な意義を持っているのであるが、この音読による方法は、かつては日本人の伝統的なあり方でもあった。

 文を読むということは即ち声を出して朗読することで、文字は見るものにあらず音読するものであった。かつてどこの街並みを歩いていても大声で読み上げる音読の声がきまって左右の家から聞こえてきたものであった。

 日本の古典はこの朗読法によってその生命(いのち)を力強く後世の人たちに伝承してきた。音読でなければ言語は生命をもって復元してこないことを日本人の知恵はさぐりあてていた。…”

 

      (「人類愛善新聞」昭和51年9月号 『霊界物語をさぐる』より)

 

 

・いろは四十八文字の神秘

 

 “お筆先は、いろは四十八文字と数字によって書かれたものであるが、それを拝読する人々の労苦と誤解を少なくするために、聖師はそれに句読点を付し、漢字を当てはめて、「大本神諭」として一般に拝読させておられる。

 しかし、お筆先は世間一般の文章と違って、平仮名そのものが本文であって、漢字の方がルビに相応するものであることを忘れてはならないのである。

 かえりみれば昭和七年頃の或る日、聖師の近侍の一人が、私の部屋を訪れ、

 「聖師さまがあなたに、これをよく読んでおくようにと言われました」

と言って、和とじの書籍を一冊私に手渡して帰って行った。

 それは活字で印刷されてはいたが、すべて平仮名で句読点のない、お筆先そのままの写しであった。

 私は言われた通りに、その晩、それを独り拝読していったが、その内容は、いつも見ている大本神諭の通りで、別段に変わった個所はないようであった。

 ところが、そのうちに、神諭拝読の際とは全然異なった意義が、稲妻のごとく私の心の中を照らすのを感じ、しかも、その意義の重要性なることに、思わず私は愕然として襟を正したのである。

 翌日同時刻に、先の近侍の人が再び来て、

 「聖師さまから、昨日お渡しした本をもらって来るように言われました」

と、本を持って帰って行った。

 実は私としては、その本をまだ三分の一ぐらいしか読んでいないのであったが……。

 その後、聖師さまからは「読んだか?」とも「何か感じたか?」とも、全然お話しもなく、私からも御生存中約二十年間、ついにそのことについて何も言わないままであった。

 そして、その時私の心に映じたお筆先の解釈は、その真偽の程は今も私には判らないが、三十年後の今日も、それを忘れることができず、心の奥に強く刻まれていることだけは事実であり、それが現実の姿となって現われてくるかどうかは将来の課題である。”

 

     (「おほもと」昭和35年7月号 葦原万象『言霊入門』より)

 

・バール・シェム・トヴ(ラビ・イスラエル・ベン・エリエゼル)  〔カバラー(ユダヤ神秘主義)〕

 

 ”祈りにおいて、知っているかぎりのあらゆる集中の術をもちいる者は、まさに彼が知っていることだけを行うにすぎない。しかし、大きなつながりにおいて言葉を語る者は、その一つ一つの言葉の中に集中の全体がおのずからはいっていくのだ。というのは、どのしるしもひとつの全き世界であって、言葉を大きなつながりにおいて語る者は、あの上なる世界を目覚めさせ、ひとつの大きな業(わざ)を行うのである。”

 

         (マルチン・ブーバー「祈りと教え」理想社より)