“ブドウは精霊の食物である。宣伝使や、神業奉仕する人は、時に身体のだるさを感じ、どこにも病的なことはないのに、病者のようになるときは、ブドウを食うことがよい。霊体一致の理によって精霊が元気づいてくると、身体もまた元どおりになってくる。宣伝活動するときには、干しブドウを少々ずつ食うと、元気に活動できる。”
“宣伝使はブドウ酒を飲むこと。ブドウ酒は邪気を払い、新陳代謝を助ける。”
(出口聖師「愛善健康法」天声社)
“救世主はいばらの冠を戴いているという。そのいばらとは葡萄のことであって、ブドウは救世を意味するのである。ナザレの聖者だけのことではない。月の国の釈迦牟尼だって同じことで、画などには皆ブドウ状の頭髪が描かれている。わしのそばに来るとブドウの匂いがする、といって不思議に思う人が多いが、みな同一であって、救世的聖者の一つの特徴でもあるのである。
宣伝使は救世主の使徒でもあるのだから、時が来ればすぐれた宣伝使にも、ほのかにブドウの香はあるべきである。と同時に、ブドウは精霊の食物でもある。それで宣伝使や、また神の業にいそしんでいるものが、時に体のだるさを感じ、どこにも病的なところは無いのに、病者のようになるときがある。こんなときはブドウを食うことがよい。霊体一致の理によって精霊が元気づいてくると、身体もまた元通りになってくる。それだから、毎年一度はブドウを食うことも必要である。
キリスト教のいろいろの行事にブドウ酒の関係が深いのであるが、それは相応の理によって意義のあることで、救世主を意味し、精霊の関係に及んでいるので、軽々しいものではない。
宣伝活動する時に干しブドウがある場合は、少々づつ食うと元気に活動ができる。”
(「神の国」昭和25年10月号)
・「葡萄」の霊的な意味 〔スウェーデンボルグ神学〕
『あなたがたが隣人の葡萄畑に入るとき、その葡萄を心にまかせて飽きるほど食べてよい。しかし、あなたの器の中に取り入れてはならない。あなたが隣人の麦畑に入るとき、手でその穂を摘んで食べてよい。しかし、あなたがたの隣人の麦畑に鎌を入れてはならない』(申命記23・24~25)
“人は違った宗教を信じていても、おたがいに隣人愛をもって、理解しあうことができます。ところがそれによって、自分の信じる真理が、曇らされたり、妥協してしまったりしてはならないということです(天界の秘儀5117)。これは自然の律法に対する霊の律法です。ここでも文字上の意味の律法と、霊的な意味の律法のあいだにある相応について考えてみましょう。
主は葡萄畑について、たとえ話で何回もお話になりました。葡萄畑で葡萄の樹は成長します。葡萄から葡萄酒ができます。
葡萄畑は「教会」のことです。よく「主の葡萄畑で働く」などと言いますが、これは教会の仕事をするという意味です。葡萄の実は「教義」で、また葡萄からできる葡萄酒は「信仰」を意味します。葡萄畑から葡萄ができるように、教会は教義を生み出します。
自分の持っている葡萄畑は、自分の属している教会のことです。その教義はその教会独特の真理です。隣人の葡萄畑とは、他人の宗教や、別の教派の教会のことです。ここにはわたしたちとは違った教義が教えられています。他の人の葡萄畑にいる時は、その畑の葡萄を食べてもいいとは、他の宗教で自分なりの栄養になるものは吸収してもいいことを意味します。
葡萄は葡萄の樹の実です。それは教会独自の真理と生活様式にもとづく愛の実のことです。すべての宗教はその目標を生活においています。ですからどんな宗教でもそれに主の善が宿っている限り、教義から生まれた生活の善があります。その証拠には、世界にあるいろいろの宗教の教派などでは慈善事業がさかんです。そこに人類の幸福を願って利己心のない奉仕と役立ちが見られます。ここにまじめな人が大勢いて、自然的な愛を実践して多くの成果をあげています。
隣人の葡萄畑でお腹いっぱい食べてもいいとは、ある一つの教会に属している人は、他の教派の教会で実践される愛の実を学んでいっていいということです。それは旅行中のイスラエル人がその土地の畑で飢えをしのぐことが許されたように、他の教派の教会で、いいものを吸収することができるということです。”
“・・・わたしたちは、他の人の畑にみのっている葡萄を食べてもいいのです。しかし、ここにも限度があり、その限度が大切です。これが大きな違いをもたらします。
つまり他の人の畑では、自分の食べるもの以外に器に入れて持って帰ってはならないとあります。すなわちわたしたちは、他の教会の愛の業によって影響されてはならないということです。そして自分の持っている真理と、その人たちの真理を結合させてはならないのです。”(K・アスプラント牧師)
(「新エルサレム公教会説教集第三巻 平和」アルカナ出版)