「惟神(かむながら)」と「惟神中毒」 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・惟神(かむながら)

 

 “惟神(かむながら)と云ふ事は、天地の真象に倣ふと云ふ事である。又、大自然、或は真理のままと云ふ事である。” (「水鏡」『惟神』)

 

・惟神中毒 (黄泉醜人(よもつしこびと))

 

 “大本の一部の人士のごとく、何事も『惟神かむながら』といつて難きを避け、易(やす)きに就かむとするは神界より御覧になれば、実に不都合不届至極の人間といはれてもしかたはない。少しも責任観念といふものがないのみか、尽すべき道をつくさず、かへつて神業の妨害ばかりしながら、いつも神界にたいし奉り、不足ばかりいつてゐる。これがいはゆる黄泉醜人(よもつしこびと)である。” (「霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻」『第二章 業の意義』)

 

 “二十世紀の三五教(あなないきょう)の信者のやうに貴方も余程惟神中毒をして居られますなア。尽すべき手段も尽さず、難を避け易きにつき、吾身の安全を守り、世界人類の苦難を傍観して……到底人力の及ぶ限りでない、何事も惟神に任すより仕方がない……とは実に無責任と云はうか、無能と云はうか、卑怯と云はうか、人畜と申さうか、呆れはてたる其魂、左様な事で如何して衆生済度が出来ませう。”  (「霊界物語 第四十巻 舎身活躍 卯の巻」『第十三章 誠の果実』) 

 

 

・「あたかもの原理」 〔インマヌエル・スウェーデンボルグ〕

 “自分の力でやらなければ、何も始まらないということ、そしてなお、すべては主の御力に依存するということ、この二つは相矛盾するようですが、両方とも真理です。自力だけでもなく、他力だけでもありません。新教会の教義の中でも、神の最高の英知が隠されている原理、すなわち自力と他力が合体されている原理が、この「あたかもの原理」です。
 天界の教義の中で、最も頻繁に引用されるものの一つに、「善はすべて主から来る」という言葉があります。自分自身の中には、善を生み出す力は何もないばかりか、エゴは悪そのものであることです。そして人間は〈いのち〉をもっているように見えても、それは錯覚で、人は〈いのち〉ではなく、〈いのち〉を受ける器でしかありません。
 太陽から放たれる熱と光が植物に放射されると、どんな植物でも美しく映え、しかも成長します。植物自身が、光・熱・〈いのち〉を生み出しているわけではありませんが、光と熱を受けると、自分自身の力で、成長しているように見えます。
 人間の場合は、植物と違って、霊魂があり、その霊魂には理性と自由意思が備わっています。この自発性を使わなければ、動物以下のロボットになります。神からの普遍的流入によって生かされていますが、それも単なる受動的器でなく、器でありながらも、神からの善と真理の流入を拒否することもできる自由な器なのです。
 生まれながらの人間は、遺伝悪に染まって、自己愛・世間愛の虜になっており、再生しない限り救われません。救われるためには、生涯かけて、自己改革を断行し、試練・誘惑を経る必要があります。すなわち自己強制して悪を避け、神の流入を受けるに相応しい器に、自己改造していく必要があります。
 ですから、誘惑と戦うにあたり、ただ手をこまねいて、神の助けを待っていてはならず、百パーセント自力で行うつもりで悪を避けます。「あたかもの原理」とは、あたかも自分がやらなければ何も始まらないと思って、全力を尽くすことを言います。すなわち百パーセント人事を尽くすことです。それと同時に、結果的な勝利は、すべて神の御業と知ります。
 百パーセント人事を尽くして器を清めながらも、内容を満たして下さり、悪を避け、善を行わせてくださるのは、百パーセント主の御力です。出発点では、人事の百パーセントと、主の御力の百パーセント、すなわち自力の百パーセントと他力の百パーセントが重なりますが、結果としては、他力の百パーセントしか残りません。自力の百パーセントは、必要不可欠であっても、あくまで見かけで、「すべての善は主から」という原理は不変不動なのです。したがって、あたかも自力ですべてが成るかのように自力を働かせながら、すべては他力による事実を知ります。
 以上を「あたかもの原理」と言いますが、簡単に言うと、次の通りです。「自分でやりなさい。でもそれが神の力と信じなさい。それがあたかも自分で行うということです」(啓示された黙示録224(9))。 参考:「神の摂理」、「真のキリスト教」”

    (「エマヌエル・スヴェーデンボルイ神学用語解説 新教会用語集」アルカナ出版)