万教同根 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “ここに月照彦神(つきてるひこのかみ)、足真彦(だるまひこ)、弘子彦(ひろやすひこ)、祝部(はふりべ)、岩戸別(いはとわけ)の諸神人は、野立彦神(のだちひこのかみ)、野立姫神(野館姫の神)の御跡を慕ひて神界現界の地上の神業を終へ、大地の中心地点たる火球の世界、即ち根の国底の国に出でまして、幽界の諸霊を安息せしめむため、天教山の噴火口に身を投じ給ひける。

 神徳高く至仁至愛にして、至誠至直の神人は、神魂清涼の気に充たされ、さしもに激烈なる猛火の中に飛び入りて、少しの火傷も負はせ給はず、無事に幽界に到着し給ひぬ。

 これらの諸神人は幽界を修理固成し、かつ各自身魂の帰着を定め、再び地上に出生して、月照彦神は印度の国浄飯王の太子と生れ、釈迦となつて衆生を済度し、仏教を弘布せしめたまひけり。ゆゑに釈迦の誕生したる印度を月氏国といひ、釈迦を月氏と称するなり。

 また足真彦は、これまた月照彦神の後を逐ひて月氏国に出生し、達磨となつて禅道を弘布したり。

 時により処によりて、神人の身魂は各自変現されたるなり。何れも豊国姫命の分霊にして、国治立命の分身なりける。

 少名彦は幽界を遍歴し、天地に上下し、天津神の命をうけ猶太に降誕して、天国の福音を地上に宣伝したまふ。

 天道別命は天教山の噴火口より地中の世界に到達し、これまた数十万年の神業を修し、清められて天上に上り、天地の律法を再び地上に弘布せり。之を後世「モーゼ」の司と云ふ。

 天真道彦命も同じく天教山の噴火口に飛び入り、火の洗礼を受けて根底の国を探険し、地上に出生して人体と化し、エリヤの司と現はれてその福音を遍く地上に宣伝し、天下救済の神業に従事したり。

 また高皇産霊(たかみむすびのかみ)神の御子たりし大道別(おおみちわけ)は、日の出神となりて神界現界に救ひの道を宣伝し、此度の変によりて天教山に上り、それより天の浮橋を渡りて日の御国に到り、仏者の所謂大日如来となりにける。神界にてはやはり日出神と称へらるるなり。

 また豊国姫命は地中の火球、汐球を守り、数多の罪ある身魂の無差別的救済に、神力を傾注したまへり。仏者の所謂地蔵尊は即ちこの神なり。

 天教山は後にシナイ山とも称せらるるに至りぬ。併し第一巻に表はれたるシナイ山とは別のものたるを知るべし。

 弘子彦司は一旦根底の国にいたりしとき、仏者の所謂閻羅王なる野立彦命の命により、幽界の探険を中止し、再たび現界に幾度となく出生し、現世の艱苦を積みて遂に現代の支那に出生し、孔子と生れ、治国安民の大道を天下に弘布したりける。

 然るに孔子の教理は余り現世的にして、神界幽界の消息に達せざるを憂慮し給ひ、野立彦命は吾が身魂の一部を分けて、同じ支那国に出生せしめ給ひぬ。之老子なり。”

      (「霊界物語 第六巻 霊主体従 巳の巻」 『第23章 諸教同根』)

 

 

 “・・・・あなたは別に三五(あななひ)教(注:大本教の事)にお這入りにならなくても宜しい。また高照山かの立派な館を三五教へ献(たてまつ)るとかおつしやつたように記憶してをりますが、決してそんな御心配は要りませぬ。神さまの誠の御教は左様な小さい区別されたものではございませぬ。三五教だとか、バラモン教だとか、ウラル教だとか、いろいろ小さき雅号をこしらへ、各自にその区劃の中に詰め込まれて、蝸牛角上の争ひをしてゐるやうなことでは、たうてい大慈大悲の大神の御神慮には叶ひませぬ。誠の道は古今に通じ、東西に亘(わた)り、単一無雑にして悠久かつ宏大なもの、決して教会とか霊場とか、左様な名に囚はれてゐるやうなことでは、誠の神の御心はわかるものではござりませぬ。あなたも三五教の中に宜しい点があるとお認めになれば、そこをお用ゐになり、バラモン教で宜しいから、悪いと気のついたところは削り、また良いことがあれば、誰の言つた言葉でも少しもかまひませぬ。長を採り短を補ひ、完全無欠の神様の御教を、なにとぞ天下に拡充されむことを希望いたします。妾も三五教の宣伝使などと言はれる度ごとに、何だか狭苦しい箱の中へでも押し込められるやうな心持がいたしまして、実に苦しうございます。すべて神の教は自由自在に解放されて、一つの束縛もなく、惟神(かむながら)的でなくてはならないものですよ。どうぞそのおつもりで今後は世界のために、神様の御為に力一杯誠をお尽くし下さいませ。これがこの世を造り玉ひし元津御祖(もとつみおや)の大神、国治立命様その外の尊き神々様に対する三五の道の真相でございますから……”   (「霊界物語 第三十巻 海洋万里 巳の巻」 『第10章 妖雲晴』)