天のみろくさま | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・開祖に明かされた聖師の神格    「先生はみろくの大神さまじゃ」  

 

 “大正五年の二月下旬であった。

 「さっきから目をあけてもつむっても小さな島が見えてしょうがない。どこかで見たことのある島やが・・・、松が一本きりしかない丸い島や。どこやったかいなあと思うてあちこち霊視しとるのやが、坤(ひつじさる)の方向としか分からん。その島がどうにも慕わしゅうてならんのや」と王仁三郎はすみに言ったが、その夜から王仁三郎の右目の下の所が疼(うず)き出し膨れ上がった。すみが押えると石のような固まりが指先にふれ,ひどく痛がる。その固まりは時とともにごく僅かずつ下へさがり、やがて頬骨を越えた。

 王仁三郎は役員の村野竜洲と信者の谷前貞義を呼んで、坤の方角にある神示の島探しを命じた。二人は大阪湾一帯から和歌山の辺まで雲をつかむような島を求めて歩きまわった。四月五日、王仁三郎ら一行二十名は大和の橿原神官に参拝、続いて畝傍山に登り山頂の畝傍神社にぬかずいた。大正天皇御参拝の三日後であった。

 拝礼のあと王仁三郎は同行の村野に告げた。

 「あの島や。今度ははっきり神示が出た。朝日のたださす夕日のひでらす高砂沖の一つ島、一つ松、松の根元に三千世界の宝いけおく……」

 「高砂沖にある一つ島、一つ松…わしは播州生まれやけど高砂沖にはようけ島があるし…それだけの特徴では--」と村野は言う。

 四月八日、王仁三郎は村野を連れて大阪へ出、大本の難波出張所の神前で神がかりして二首の神歌を詠じる。

 

 世を救ふ 神のみ船はあづさ弓 播磨の沖に浮きつ沈みつ

 

 三千年(みちとせ)の 塩浴(あ)みながらただ一人、世を憂(う)し島にひそみて守りぬ

 

 右目の下の疹きは下りつづけて四十八日目の四月十三日、ついに右の歯ぐきに真白な頭をのぞかせた。すみが指先に力をこめて引き抜くと、底の平らな純白のきれいな石が出てきた。すみが声をあげた。

 「あ、この形は金竜海の大八洲さんや。小松を植える前の大八洲さんそっくりですで、先生……」

 「そうか、どこかで見たと思うたはずや。おすみ、これは石やない、舎利」(しゃり)や。わしの捜している一つ島と同じ形じゃ」

 すぐに村野を呼んで、小箱に納めた白い舎利を見せる。

 「よいか、この形を覚えるのやで。金竜海にはもう型が出とる。大八洲さんと舎利と一つ島とは同じ形や。この形の島を捜せ」

 探索は再開された。六月初旬、村野と谷前は播磨灘についに目ざす島を発見した。

 高砂港の波止場から眺めると、右に家島(えしま)群島・小豆島、左に淡路島がぼんやり見える。その中間、沖合三里にやわらかな丸みを帯びた小島…神島がそれであった。神島は四十八家島群島のいちばん上にあるから上島、烙烙(ほうらく)(素焼の平たい土鍋)を伏せたような形なので烙烙島、見る方向によっては牛が寝そべった姿に似ているから牛島ともいう。王仁三郎が神がかりして詠んだ神歌に出た「憂し島」も牛島を暗示している。島の端にひょろんと一本松が見える。竜門と名づけた岩屋があって鱗のある竜の出入で黒光りしているという神秘の伝説をもつ孤島でもあった。

 六月二十五日、大本の一行六十三名が三隻の船に分乗して神島へ向かった。船頭たちの目にもいかにも変わった一行とうつった。男も女も子供たちもすべて和服姿で刀を持っている者も何人かいる。とりわけ目立つのは王仁三郎の女装と直日の男装の姿である。王仁三郎は豊かで長い黒髪を中央で分け、頭上に大きく髷を結い、残った髪は背と肩に流している。念入りな女化粧に赤・自・黒三枚の裾模様をかさね、帯は前で結んで長刀を握りシャナリシャナリ。

 直日は髪をきりっと一つにたばね、白の剣道着に横縞の袴を短くはき、腰には脇差を一本ぶちこむ武者少女の姿。右手首に白の風呂敷包みをからませ、左手に<木の花直澄>(直日の雅号)と書いた笠を持っている。

 午後三時、磯岩つたいに渡る王仁三郎のあとを追って全員上陸。

 人の背丈ほどの矢竹(別名女竹)が一面に生い茂る中を声をかけ合い引き合いながら、三町余にして山頂に辿りつく。王仁三郎が長刀を抜いて矢竹を切り開くと刀を持っている者はそれに習い、やがて六十余人の坐る空地ができる。

 綾部から背負ってきた宮(高さ一メートル・横五十センチ)を正面におき、矢竹を敷いて一同はその上に坐した。王仁三郎は潮風に向かって石笛を吹き鳴らす。石笛の音は山頂に響き渡り、一つ松をめぐり、 波間に尾を曳いた。神示によれば、この島にこそ坤の金神が三千年もの間こもっておられたのだ。

 女竹を取って弓矢をつくり、えびづるのしなやかな茎で弓づるを張った王仁三郎は、一同の合掌の中でこの世の邪気を射放つ型を四方に示す。それから坤の金神の鎮座を願って山頂の式典が行なわれた。神霊の鎮まりたまう宮を捧持して山を下り、砂浜のわずかな広場に勢揃いして記念撮影した.帰途の船の中で王仁三郎は男装に戻る。

 六月二十八日午後一時過ぎ、帰着した一行はひとまず竜門館に宮を安置する。統務閣の自室へ入った王仁三郎は再び女神姿となって教祖室の襖を開いた。なおは驚いて身じまいを正し声を上げた。

 

 「坤(ひつじさる)の金神さま……」

 

 この日をどれだけ待っていたろう。なおにかかる艮の金神国常立尊と王仁三郎にかかる坤の金神豊雲野等が世に落とされて幾万星霜絶えて久しい再会なのだ。夫婦対面の神霊の喜びをこめてその夜祝いの盃を交わした。

 十月四日(旧九月八日)午後四時、筆先の神示によって神島まいりに出発する。出口なお(八十一歳)、王仁三郎(四十六歳)、すみ(三十四歳)、それに直日(十五歳)ら五人の娘たち、出口家親戚一統、役員信者たち八十一名は高砂港より大小九隻の船に分乗する。風が出てあゆび(船と陸を渡す四十センチほどの幅の板)が揺れていたが、老齢のなおが畳の上を歩くようにスウと渡った。その姿の神々しさに「この人は生き神さまやなあ」と嘆声をあげる見物人、さそわれて手を合わせる人びとも多かった。

 出船は五日午前二時、どうしたことか王仁三郎はだまりこくり、一言も言葉を発しない。神島まいりのあいだじゅう、指示はすべて王仁三郎の筆で示された。

 

 その夜、出口家一統は大阪松島の谷前貞義方に宿泊した。谷前家の離れの二階で王仁三郎は無言の行のまま神像を描き、階下では神島から捧持した宮の傍でなおが筆先を書いていた。すみは母の背に異様な昂ぶりを感じてハッとした。

 宮の前に顔を伏せ、なおが震えている。声をかけると振り向いたなおの顔に血の気がなかった。

 「先生がのう…」 しばらくなおは息をつめたが思い決して一気に言った。 「…先生がみろくさまやったでよ…」

 その言葉の意味がすみには呑みこめなかった。心底から深い溜息をついてなおは言ったという。

 「先生はみろくの大神さまじゃと神さまがおっしゃる。何度お訊きしても同じことや。わたしは今の今までどえらい思い違いをしていたのやで」

 なおはいま出たばかりのお筆先を取ってすみに渡した。

 

 ……みろくさまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、スサノオノ命と小松林の霊が、みろくの神の御霊で、けっこうな御用がさしてありたぞよ。みろくさまが根本の天の御先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ。二度目の世の立替えについては、天地の先祖がここまでの苦労をいたさんとものごと成就いたさんから、永い間みな苦労させたなれど、ここまでに世界中が混乱(なる)ことが世の元からわかりておりてのしぐみでありたぞよ…。なにかの時節がまいりたからこれから変性女子の身魂を表に出して、実地のしぐみを成就いたさして、三千世界の総方さまへお目にかけるが近よりたぞよ。出口なお八十一歳の時のしるし。(大正五年旧九月九日)

 

 ……以下『大地の母』十巻〞天下の秋″ より抜粋する。……

 なおはいつまでも眠れなかった。王仁三郎を天のみろさまと知った喜びか。はた不覚にも今までそれを悟り得なかった悔恨か。王仁三郎と初めて出会った十八年前、若い若いまだほんの子供としてぐらいより見ぬなおであった、神命によってすみの婿にこそしたものの、人間心では常に批判せずにおれぬ男であった。それを神は縦糸に対する横糸、厳(いづ)に対する瑞(みづ)、変性男子に対する変性女子としてみろく神業には欠かせぬものと規定した。それでいながら争いは根深かった。どこどこまでも小松林を追いつめて追い落とさずにはおれなかった。互いにかかる神霊同士のあの長い峻烈な火水の戦い、なおは悩み抜き、ついに王仁三郎こそ坤の金神の御用という動かぬ認識に立った。が、それもあくまですさのおにかかる艮の金神の補佐神としての坤の金神であったのだ。それを神は坤の金神も素盞嗚命も、いや、なおがあれほど非難した小松林命までとび越えて、すべてがみろくさまの霊であり、みろくさまこそ根本の天の御先祖さまであると示されたのだ。さすがに太いなおの肝魂(きもたま)がでんぐり返るほどの驚きであった。

 旧五月二十五日、王仁三郎が神島の神霊を大本にお迎えしてきたのに、神は再びなおに神島渡島と神霊迎えを命ぜられた。なぜ二度までもとなおはいぶかしんだが、今こそ思いあたる。王仁三郎が女装までして現われたのはなおのためであったのだ。坤の金神のお姿だ、となおは驚きながらもう一つ奥の天のみろくさまとは夢にも見抜けなかった。その不明のために神はわざわざ神島のお土を踏ませなさったのだ。無言のうちに悟れよと王仁三郎は示していたではないか。

 

 それすら王仁三郎のわがままとなおは心の底で思ってはいなかったろうか。

 ふと虚心に返ると、虫のすだきが地の底から湧き立っていた。八十一年間の長すぎるばかりの生涯を顧みれば、春夏秋冬、季節の移り変わりを鑑賞するゆとりすらなく生き続け、帰神までは夫や子らを養うための生活と戦い、帰神後は神業一筋に身も魂も没しきった。色花を見ることさえ、心のゆるみと忌み恐れて…それがいつか゛我゛となっていったのに違いない。その最後の我もぽっきり折れた思いであった。毎年鳴いている筈の秋の虫のすだきが、今は痛いくらいに身に沁みる。縦糸は張り終わった。後は横糸が自在に織りなすのを待つばかり。どんなに途方もない錦の御機(みはた)(後述)が織られるのだろう。それもなおがこの世で生きて見ることはあるまい。あとは天のみろくさまのかかられる王仁三郎に任せよう…。深い安堵の底に一抹の淋しさが忘れていたなおの涙を呼びさましていた。大本の活歴史はまさしく神の仕組んだ勇壮なドラマであり、登場する役者たちは神に引きよせられ縦横にあやつられてきた。そのあげくの見事な逆転劇である。゛立替え立直し゛ は'換言すればすべての価値の転換でもあろう。

 悪神・崇り神として押しこめつづけた艮(鬼門)の金神・坤(裏鬼門)の金神が、実はこの世を造り固めた人群万類の祖神であると認識することは、第一に天地のひっくりかえるような神観の根本的転換でなければならない。

 第二には、みろくの出現によって大本の内側に起こった認識の転換である。つまり.艮の金神に再出現を命じた天の主体者であり、国祖退隠のおりの神約どおり、明治三十一年から大化物としてなおの神業と対立するように見せながら、実は助けてきたというのがみろくさま。

 すでに大正五年旧七月二十八日の筆先で「みろくさまのお出ましになる時節が参りてきて、天と地との先祖が表になりて三千世界の世の立直しをいたすぞよ」と予告し、大事の経綸は今の今まで申さんということが、筆先で気をつけてあろうがな」と注意もあった。この神島開きの筆先は大本の従来の神観に対して大きな修正を命じるものである。

 王仁三郎の神格と使命がみろくの神の御霊であるというこの神示が出てはじめて、今まで絶対に許されなかった筆先の選択や加筆(ひらがなの原典に漢字をあて、意味をさらに明確にする)などが公然と可能になった。これが『大本神諭』として世間に広く呼びかける発火点ともなるのである。

 王仁三郎の肉体に゛みろくの大神゛がかかったなぞと言えば「だから王仁三郎は大ボラ吹きの大山師だ」と不快に思われるかたがたもあろう。

 あるいは仏教でいう弥勒菩薩を勝手に借りてきたのだと疑われるかたもあろう。たしかに王仁三郎が自分であらわした筆先に出たのなら眉つばである。しかし、これは出口なおが自分の意志とかかわりなく書かされたものである。この筆先が出たとき、なろうことならなおは破り捨ててしまいたい衝撃だったに違いない。

 筆先を絶対と信ずるなおであるからこそ、我を折った。わが手で書いたもので改心させられたのである。

 なおと王仁三郎の血みどろの相互審神の結果、じつは王仁三郎に懸る坤の金神(スサノオ命、小松林命もふくめて)こそ、みろくの大神であるとなおの筆先が実証する、いわば大本的弁証法がここに見られる。

 『霊界物語』(第七巻総説)では、出口なおが王仁三郎の神格を゛みろくの大神゛と認識した大正五年以後は゛見真実゛ に入ったといいそれ以前を゛未見真実゛の境遇にあったとしている。

 なおが゛見真実゛ の境域に適したのはようやく昇天の二年前であった。“

 

         (出口和明 「出口なお、王仁三郎の予言・確言」(光書房)