凸凹発達の子育てをしていると、
親が主体性を持つことの大切さに(実体験として色んな場面で)出くわすと思います。
わたしの様に何かの事がきっかけになって覚悟ができて、一旦腹をくくると見えてくるものもあって、主体性もその一つなのですが、
自分で考えて決める。
という事が大切だと思える場面に出くわします。
凸凹育児をしていての気づきとして、
それって本当に子どもが求めていること?
子どもの将来に本当に役立つの?
…と思うことも多々あって、支援者(と呼ばれる人たちも含め)の一方的な思い込み(?)の独りよがりな決めつけにも関わらず本質から逸れて議論に発展する事も少なからずあるでしょう。
発達障害界隈では
「発達障害」は個性だから「治す」とかいうものではない。
という人がいます。
そう思いたい人、そうしたいのならその人の自由です。
だから、治りたい人、治したい人がいてもそれはその人達の自由であって、そこに異議を唱えるのは違うと思うのです。
個性であると主張するのは勝手ですが、色んな事が不便で不自由だから「治りたい」と思う人達が何とか頑張って、できなかった事が出来るようになったり、困っていた問題がなくなってラクになったから「治った」と喜んでいる時、その人達に向かって
「それは治ったのではない」なぜなら
「発達障害は脳機能の障害だから治らない」と決めつけて、
教え諭すかのような事を言うのは余計なお世話というものです。
(それらは本当の事ではないという点ではむしろ不要と言える。)
なぜなら、紛れもなく生活がラクになり、診断の時には困っていたアレコレがなくなった今、診断名そのものが外れる(つかなくなる)事が少なからずあるからです。
そもそもスペクトラムで、元々の境界線が曖昧なのですから、そんな事があっても少しも不思議ではありません。
これまで、子どもに関わる勉強会や研修会、セミナー、或いは読んだ本などの多くで、
「叱ってはいけません」
「無理をさせてはいけません、後で二次障害になります」
とまことしやかに言われてきましたが、それは一体誰の為の助言(?)だったのでしょう?
叱られない事、頑張らせない事、無理をさせない事、は本当にその人の為になり、その人達はそれを望んでいるのでしょうか?
又、頑張らせたり無理をさせたら必ず(思春期に)二次障害になるのでしょうか?
わたし達が目指しているのは子ども達が社会の中で頑張れる大人になる事、自立した人になる事なのですから、先の助言が本当に子ども達の将来を思って言われた言葉ではなく、支援者と言われる人達の勝手な決めつけの無責任な言葉だなぁ〜と思います。
実は本質がわかっていない支援者という人達は無責任に権利ばかり主張し(させ)て、
周りが我慢すればいい。
(つまりは周りに我慢させればいいという事なのですが)
という考え方を奨励して、普通じゃない子育てを親に覚えさせ、他方ではそうされ続ける事で
頑張らなくてもいい。
我慢しなくていい。
という、およそ社会では通用しない考え方を子ども達に覚えさせて、つまりは親も子も誤学習させられているのですが、それがおかしいと思わない雰囲気を作り上げているのです。
もしも、我慢する事も頑張る事もせずに成長してそのまま集団生活の中に入った場合、その子は果たしてどうなるでしょう?
一番困るのは誰なのでしょう?
親は誰の為、何の為に子育てするのでしょう?
支援者に認められたいからですか?
それとも、
我が子が社会で頑張れる人になれる様にする為ですか?
当然、後者だと思うのですが、いつの間にか目的がブレブレになって、自分で考える事を放棄して周りの言葉に従って流されて振り回されている人が少なくないと思うのです。
親に主体性がないとそうなります。
それはかつてのわたし自身の姿でもあるからわかるのです。
続きます。
凸凹育児を頑張っているお母さんへ

新しい一日が始まりました。
今日も一緒に凸凹育児を楽しみましょう
