わたしが勉強会や講演会・講習会・相談会に行っていた頃によく耳にして、余り好きではなかった言葉の一つが昨日書いた
「兄弟児」
という言葉です。
この表現には、
主役はあくまでも障害のある子ども達で、
兄弟姉妹はそのオマケみたいな存在。
とでもいうかの様な十把一絡げ感があって、何となくしっくりきませんでした。
例え自分の子どもであっても、ある程度の年齢になったらそれぞれの生活があって、
どう生きるか?
はその人自身が決めるもの。
その人の人生はその人のもの。
誰も代われないし、そういうものでもないでしょう?
だから、いつまでも親が干渉したり指図するのは違うと思うのです。
ブロ友さんに毎週の様に日本全国で講演をしているハルヤンネさんという方がいらっしゃいます。
「おめめどう」という会社の社長で、支援グッズの企画・販売もしておられます。
彼女の次男さん(成人している)が自閉症で普段は作業所(?)やショートステイ等を利用していて、週末は一人で講演先に出かけています。
長男さんは別のところで一人暮らしをしていましたが、その後、結婚して最近お子さんも生まれました。
ハルヤンネさんは息子さん達が子どもの頃から個別の人格・個別の人生を尊重して育てていたので、ごく自然の流れの中でこうなったのだと思います。
発達障害は「治らない」という考えの方なのでそこはわたしとは違うのですが、それでも子育てに関しては例え兄弟姉妹であっても子どもはそれぞれ
別の人格・別の人生
という考え方はわたしも同じです。
兄弟であったとしてもそれぞれの人生があるのだから、
お兄(姉)さんだからといって弟(妹)の面倒を見る。
とか、
その逆に兄(姉)の面倒を見なければならない。
という事もないと思います。
助けなくていいとか「関わらない」というのとは違います。
一緒くたに考えない。
という事なのです。
「治りません」
という言葉に縛られてしまうとその言葉に踊らされて、それでは将来家族の誰かが引き取って一生面倒をみる。
…という結論になり易いのかも知れません。
「治る」がスタンダードになって、もっと知られる様になったら
早い時期に発達のヌケに気づいてそこを育てて(早く治して)、自立できる人に育てればいいのではないか?
…と思考を切り替えられると思うのです。
そういう意味でも「治りません」は(「治る」事を知らずに)その言葉しか知らない人にとって、その家族にとって呪縛の様にがんじがらめにする酷い言葉だという事に変わりが無いのです。
凸凹育児を頑張っているお母さんへ
今日も一日お疲れ様でした
明日も一緒に楽しみながら頑張りましょう
おやすみなさい