魯迅

松枝茂夫 訳

岩波書店1955

 

『朝花夕拾』は、魯迅の自伝的エッセイを集めた本ーーということになっている。たしかに、この本には、たとえば仙台時代を描いた「藤野先生」に出てくる「幻燈事件」のように、魯迅の思想形成を語る上で盛んに引用される回想が多数含まれている。だが、素直に自伝だと読むには、いささか謎めいた本であることも確かだ。まず疑問に思われるのが、これらのエッセイが書かれたタイミングである。

 

『朝花夕拾』の原稿が順次雑誌に掲載され、そして本にまとめられたのは、1926-27年にかけてのことであった。この時期の魯迅は、実に混迷を極めた生活を送っていた。北京で大学教師をしていた彼は、政府が学生デモに発砲したことを激しく批判したかどで指名手配され、ドイツ人や日本人の経営する病院を転々と潜伏し、北京脱出を余儀なくされる。その後友人の斡旋で南部のアモイや広州の大学に職を得るが、そこでは教授陣の権力闘争に巻き込まれ、さらに国民党の反共クーデターへの態度で学長とも対立する。やがて彼は教職を辞し、上海の租界地に渡り、以降死ぬまで上海で暮らし、文筆業に専念することになる。また、北京脱出と同時に、彼は親が決めた最初の結婚相手と事実上離縁状態になり、広州では教え子だった許広平と同棲を始める。つまり、この時期は魯迅にとって、社会環境においても個人の内面においても、多大な変化が生じていた時期である。そうした落ち着きのない時期に、彼は自伝を書いたのである。なぜか。

 

もちろん、どこかの新聞の連載「私の履歴書」のように、功成り名遂げたおじさんたちが人生自慢するためではない。『朝花夕拾』の大半の文章は学生時代とそれ以前のことを書いており、文壇や論壇に名声を得た以降の事跡に触れているのは友人の范愛農を回想した一篇のみであり、しかも夢破れた寂寥感に溢れる文章である。では、自慢でなければ、一部の研究者が主張するように、幼少期の記録に頻出するいい加減な大人を描くことで、中国人の国民性への批判を再度繰り返したのだろうか。そのように読めなくもないが、すでに徹底的な絶望を経た魯迅が、何の新鮮味もない批判をくり返すとは考えにくい。あるいは、乱離の生活のただ中にあるからこそ、過去を回想することでひと時の安息を得ようとしたのだろうか。たしかに、本書を翻訳し、解説を執筆した松枝茂夫は「現実の世界から逃避して自分の過去の甘美な世界に遊ぼうとした」と指摘している。だが、それにしては、本書の内容が「甘美」からあまりにもかけ離れている。10本のエッセイのうち、いい思い出と言えるのは「百草園から三味書屋へ」くらいで、あとはどれもトラウマと憂鬱な経験にあふれている。その上、魯迅の作品全体を眺めれば、「現実の世界から逃避」というのは、あまりにも彼の姿勢にそぐわない。魯迅はむしろ、いかなる状況においても、痛みに耐えながらあくまで現実を見つめていたというべきである。

 

結局、消去法でいくつかの可能性を排除できても、明確な創作動機を示すのは困難だ。人間の動機は複層のもので、一つだけを指摘するのはナンセンスだともいえる。その上この本には、自伝として読むのをためらわせる次のような言葉がある。

 

この10編の文章は記憶から書き上げたものだ。実際の内容とはやや異なるかもしれない。しかし、私は今、そのようにしか記憶していない。

 

つまり、『朝花夕拾』は事実そのものではなく、魯迅自身の記憶の方により重きをおく。実際、本書の記録に事実と一致しない点があることを、ほかならぬ魯迅の弟・周作人が指摘している。この点から言っても、魯迅は単に過去に沈潜しようとしたのではなく、小説家らしく、自分の人生を題材に、創作を随所に紛れ込ませた作品を書き上げたと言うべきである。それはある意味で、同時代の日本で一世を風靡した「私小説」そのものだ。本書に出てくる「私」という語り手は、魯迅自身であると同時に、魯迅によって作り出された一個の人格であり、魯迅はその人格の幼少期から青年期までを眺め、彼が家族、友人、教師と、そして組織、社会、国家といかなる関係を結び、いかなる感想と感情を抱いてきたのかを描き、それによって再度中国と自分自身の関わり方を問い直そうとした。このように考えられるのである。

 

当然ながら、上にあげた論者たちの意見を見ればわかるように、問い直したところで、『吶喊』や『彷徨』の批判と絶望の繰り返しとみなされる可能性が高い。それでも、魯迅にとって、私小説の形で書くことにはこれまでにない意義があった。そのことを端的に示してくれるのが、小林秀雄が名文「私小説論」で記した次の言葉である。

 

「個人」というものが、人々にとって重要な意味を持つ概念となるまで、私小説は文学史に登場してこなかったのである。

 

小林秀雄からすれば、私小説が成立するためには、まず「個人」という概念の重要性が認識される必要がある。なぜなら、私小説とは、個人を社会と対置させ、個人の存在の状態を描くためのものだからだ。そのような作品の白眉として彼はルソーの『告白』を例に上げ、次のように評する。

 

ルソーは決して『告白』で自分が実際に体験した生活を描こうとしたのではない。どのような技巧を駆使して表現するのかに頭を悩ませたこともない。彼を駆り立てたのは、社会にとって個人とはなにか、自然にとって個人とはなにか、それらについて行ってきた激しい思考であった。

 

さらに、ルソーと対照的に、「激しい思考」を経ていない日本の小説家を、小林秀雄は厳しく糾弾する。

 

外来の思想は単に技巧の形式としてのみ作家たちに受け入れられ、技巧の形式としてのみ生きていくしかなかった。彼らが受け取ったのは思想というより、単なる感想でしかない。

 

すなわち、小林秀雄にとって、個人と社会の対立、そして対立をめぐる思考こそが私小説にとって重要なのであって、事実の回顧や文学的技巧などは二の次である。それなら、魯迅を読んできたぼくたちは、自信を持って小林秀雄の議論に乗っかって、このように宣言することができるだろうーー激しい思考を、同時代の誰よりも激しい思考を繰り返した魯迅なら、私小説を書くことは単なる感想ではなく、十分に深い思想を持つものである、と。

 

その思想とは、一体何であろうか。おそらく魯迅のほかの作品と同様、十人十色の発見があると思われる。その一つとして、ぼくは再度小林の議論を参照し、魯迅なりの「個人」がようやくここで確立したということを読み取りたい。

 

『阿Q正伝』、『孔乙己』、『祝福』などの優れた作品には、同じくらい優れた文学的キャラクターが登場する。しかし、魯迅が彼らを通して表現しようとしたのは明らかに個人ではなく、彼らが代表する中国の人々である。だからこれらの作品を読むとき、ぼくは「こんなやついるいる」と頷き、「100年経っても変わらないのか」と嘆いてしまう。魯迅が好んで使う語り手としての「私」でさえ、中国の現実を前に為す術もなく敗れ去った無力な知識人の象徴である。しかし、『朝花夕拾』では全く異なる。ここでの「私」は、あくまで魯迅本人であり、魯迅の人生に登場した人々も、あくまで一人ひとりの人間に過ぎない。「藤野先生」の藤野厳九郎のような立派な人物はもとより、魯迅家の女中「阿長」も、子供を騙したり責任をなすりつけたりする欠点と同時に(「犬・猫・鼠」)、少年魯迅が欲した書物を苦労して手に入れ、彼を大いに感激させた思いやりのある人間として描かれている(「阿長と山海経」)。つまり、『朝花夕拾』に至って、個々の人物は初めて特定の階層の象徴としてではなく、自分そのままたりえ、一個の人間として日常生活の中で様々な関係を他人とむすび得たのである。

 

魯迅が経験した絶望は深く、広く、強く、ひょっとしたらそれを「中国全体に対する絶望」「中国人全体に対する絶望」と定義することさえ可能かもしれない。だが、たとえそうだとしても、それは「一人ひとりの中国人に対する絶望」ではない。救いがたい全体や集団はあるかもしれない。しかし、個人は決して簡単に全体に埋没されるものではない。希望は、特定の階層や集団に求めるべきではなく、むしろ階層や集団に回収されない個人に求めるべきであるーーこのような変化があるからこそ、徹底的に絶望した魯迅は、再出発することが可能だったのだ。その変化はまた、彼がかつて『狂人日記』で追いかけていた英雄、『祝福』で自分の姿を重ねた失意の知識人など、「民衆を導くべき者」として措定されていた人物像の変化を迫るものであった。

(続く)

 

(小林秀雄の引用は中国語訳を自分で和訳したもの。原文の表現と異なる。)

 

 

 

画像11

 

午後4時過ぎ、16名の高齢女性作家の作品を集めた展覧会を見終わったぼくは、森美術館のカフェの窓辺に座り、予想外に美味い紅茶をすすりながら、妻に笑ってつぶやいた。

 

「疲れたね」
「そりゃそうよ、みんな政治的な訴えばかりだもん。神経が疲れる。」

 

たしかにそうだ。記憶がまだ新しい今のうちに思い返すと、一見すると政治と直結しない作品は、出展者のうち最高齢であるのカルメン・ヘレラの抽象画くらいであった。御年106歳(!)の彼女の作品が、どうやらモンドリアンに影響されたらしいこと以外、なにもわからないぼく。作品の出来不出来は当然のこと、作家が込めた意味も汲み取れなかった。だが、このおばあちゃんがキューバ出身だということ、20世紀においてキューバが演じた様々な役割を思うと、大きなカラーブロックでさえも、何らかな政治的な主張のように見えてならなかった。だってほら、国旗はみんなカラーブロックの組み合わせじゃないか(多分そういう意味じゃないが)。

 

画像1

 

わかりやすい形での主張もあった。スイスのミリアム・カーンの「美しいブルー」は、キャンバスの下に行くほど濃くなってゆく青のグラデーションのなかに、両手を上げた人の影のように見えるものが沈んでゆく。2017年に描かれたこの作品は、明らかに難民船沈没事件から着想を得ている。コロンビアのベアトリス・ゴンザレスは、自分の国の国境で、ベネズエラ難民が追い返されたときの写真のシルエットで壁紙を作成し、「追放された壁紙」で国家が打ち立てた無形の壁を具象化させ、痛烈に批判した。日本の三島喜美代の「作品 92-N」は、陶器で山のように積み上がった新聞を再現し、消費されるだけの軽薄な情報に物理的な重みを与え、そのコントラストで情報社会のあり方を問うた。いずれも、同じく現代社会に強烈な違和感を持つぼくの思考を動かし、そのために疲労が募る作品だった。

 

画像2

美しいブルー

 

画像3

追放された壁紙

 

画像11

作品 92−N

 

それにしても、なぜこの16人だろうか。現代アートの知識に乏しいぼくには、彼女たちがどれだけ立派な業績を打ち立ててきたのかがよくわからない。だが、たとえ全員国宝級の芸術家だとしても、今更「女性」を前面に打ち出し、しかも若い作家を排除して高齢者ばかりを集めることに、どのような意図や意味があるのかと、考えずにはいられない。出展作品は彼女たちの若い頃から直近のものまであるから、単に「老いて益々盛んなり」を感じ取ってもらうためでないことはたしかだ。あれこれ思考を巡らせていると、妻がポツリと呟いた。

 

「なんというか、批判に強烈さがないよね。もっと痛みを伴っていたり、直視できないくらいに悲惨だったりとかするかと思ったけど」

 

たしかにそうだ。その証拠に、ぼくはこの批判ばかりの展示品のなかで、心地よさに包まれることさえあった。それが最初の展示室に陳列されたイギリスのフィリダ・バーロウの「アンダーカバー2」だ。言うまでもないが、作品の真意を理解できたわけではない。「暮らしの中のありふれた素材を使い、得てして特権的になりがちなアートを批判」と解説は言うが、ぼくにはただ、この一見無秩序に置かれたカラフルな物体の下に、鉄骨と木材、コンクリートからなる暗がりの空間があり、その空間が巣穴のように見えた。あそこに座椅子を置いて、うたた寝でもしたらさぞ気持ちがいいだろう。

 

画像5

アンダーカバー2

 

ほかの作品も、どれも重大な問題を提示してはいるけど、えぐるような痛みを感じられない。「ほら、ここにこんな問題がある、できれば気づいてほしい」、そんなやや控えめな声が聞こえてくる程度だ。そのことは、最も饒舌な作品であるアメリカのスザンヌ・レイシーの「玄関と通りのあいだ」によく現れている。女性たちが街角で議論し、その様子が三つのスクリーンで繰り返し映し出されるこの作品、議論はジェンダー、人種差別、格差など、どれもポリティカル・コレクトネスのど真ん中にあるテーマを巡って行われるが、形はあくまで仲間内での会話だ。通りかかった人が興味を持てば立ち止まって耳を傾けるだろうが、そうでなければ、井戸端会議以上の影響力を持つことさえないだろう。

 

画像6

玄関と通りのあいだ

 

それでもいいのだろうか、或いは、それがいいのだろうか。

 

ついつい忘れがちだが、さっきまで妻とぼくが見たのは芸術作品であり、決して政治主張を伝えるためのビラではないのだ。作品である限り、何らかのひとかたまりの形をとる。現代アートというやや難解なものでも、突き詰めればキャンバスに絵の具で絵を描くのと同様、想像力に溢れる異才の方々が、特定の色、形、質感を持つものを使い、固定された物体またはイメージを作り出し、それを一個の「作品」として世界中のどこでも展示できるようにしたものだ。しかし、どうしても形になってしまうところに、現代アートのパラドックスが潜む。なぜなら、作品は世の中に出た瞬間、作者が完全に支配することができなくなり、込められていたはずの批判が一気に白々しく見えてくるーーもっとはっきり言えば、作者ではなく、アート市場、投資家、収集家、すなわち資本や金銭、そしてビジネスのルール、まさしく芸術家らが批判しようとしているものによって、作品が支配されてしまうのである。目の前にある16人のおばあちゃんの批判も、その宿命から逃れることは不可能だ。

 

「なんだかなあ……」そう思い至ったぼくは、妻と目を見合わせてから天を仰いだ。しかし、ここでも妻は冴えていた。

「作品のなかに、彼女たちがまだ若かった頃のものがたくさんあった。その時から今まで、おばあちゃんたちは批判を続けている、世の中の問題が変わらず続いている、そういうことも伝えようとしているのかな?」

 

そうか、問題は決して解決されず、消滅することもない。しかも多くの問題の大本になっている資本主義という怪獣は、批判する作品まで丸ごと飲み込む。となれば、我々人類は、ヤツらに支配され続けるしかないのかーー「いや、そうではない」と、おばあちゃんたちは声を上げる。「飲み込まれたのなら、絶えず新しいものを作り出し続ければいい」、彼女たちの行動は、そう教えてくれているのだ。三島喜美代は、作品の横で流されるインタビュー映像のなかで、「私は一生懸命ゴミを作り続けているだけ」と笑って言う。ゴミかどうかは問題ではない。大事なのは、どの作家もそうであるように、大量生産を特徴とする20世紀以降の時代において、彼女たちが自分の手を使い、人生の大半の時間を費やしてなにかを作り出し続けていることだ。それらは何の実用性もないという点ではゴミ同然だが、既存のものを複製したゴミではない、ゆえに無限に次の新たなものへつながる可能性を開いてくれる。そうした可能性の伝承を、苛烈な批判によって誰かに押し付けようとするのではなく、淡々と行うことが、彼女たちの素晴らしさ、そう考えてもいいのだろうか。

 

International Dinner Party_インターナショナル・ディナー・パーティー_1979

インターナショナル・ディナー・パーティ

 

確信は持てない。ぼくは好意的に理解しようと務めているが、その姿勢自体が間違っているのかもしれない。もっと素直に気持ちに従っていれば、たとえばスザンヌ・レイシーの別の作品「インターナショナル・ディナー・パーティ」には強烈な違和感を覚えるだろう。女性の連帯を示すためのディナー・パーティを同時刻に全世界で開催すると銘打った作品は、実際にパーティを開催した都市を世界地図でピン付している。予想通りというべきか、アメリカが半分ほどを占め、残りを西欧、南米、日本が分け合う。ロシアを含む東欧、日本以外の東アジアは皆無で、アフリカにもピンが2つしかない。「ピンの多寡こそが女性を巡る状況を示す!」と言われればそれまでだが、この作品が作られたのは1979年だ。冷戦中にあって、東側からの参加が見込めないのを知りながら、それを「インターナショナル」と表現するのは、やはりどこか特権的な思考がつきまとう。資本主義の怪獣を待つまでもなく、初めから自分たちが批判する側に傾いている可能性だって、彼女たちにはあるのだ。それに、こんな控えめな批判では、せいぜい一瞬の気づきを得て、それを個々人のなかで消化し、折に触れては「そういえばあの人もそう言ってたよね」と、世の中の理不尽さと絶望的な状況を再確認できるだけだ。未来がよくなる道筋は、少なくともぼくには全く見えてこない。

 

だから、この状況を打破するためには、やはり何らかの激しさが必要になるだろう。必ずしもショッキングな色使いや暴力的な行動に代表される必要はないが、それでも理性に訴えるだけでなく、より感情を揺さぶるものでなければならない。それを実現できたのがエテル・アドナンだ。といっても、彼女の作品自体ではなく、作品の横に追加された小さな説明書きである。「2021年11月14日に逝去されました」という言葉と作品を見比べ、「16人のおばあちゃんを集めたのも、或いは誰かが死ぬのを見越したからか」と、邪推したくなるほど、ぼくは感銘を受けた。難解な彼女の作品がなにを表現しているのか、なにを訴えかけているのかはわからないが、たとえ理解できたとしても、ぼくにとっては単なる知識や思考であり、感情的な揺さぶりにはなれなかった。しかし、彼女が死んだ、しかも会期中に死に、そのことを来場者全員に知らせているという事実が、万人に平等な死を否応なしにぼくに意識させ、彼女が超越した存在ではなく、この世に生きる凡人だということをわからせてくれた。それだけで、彼女とほかの15人が描いた問題が遠い彼方にある鑑賞の対象ではなく、ぼくの足元にも迫ってきている、或いは近い将来に到来するであろうと、危機感をより強く持つことが出来た。突飛な比較かもしれないが、19世紀末の中国で、改革を試みて失敗し、処刑された譚嗣同の言葉を思い出す、「中国で変法が成功しないのは、変法のために流血した人間がまだいないからだ。ならば、私がその最初の一人になろう」、と。

 

画像8

アドナンの作品

 

画像9

 

といっても、さすがに死ぬのは良くない。処刑は当然いけないことだし、寿命もできるだけ延ばしたいとぼくは思っている。そこで、もう一つの可能性にも注目してみたい。これまでのルールの変更を迫る、ロビン・ホワイトの「大通り沿いで目にしたもの」だ。ニュージーランド出身の彼女は、トンガの先住民とともにこの作品を作り上げ、使用した素材も先住民が代々受け継ぐものだ。文様は現代の戦争を反映したものが含まれているが、デフォルメによって伝統工芸品と言われても違和感がないように仕上がっている。思えば、資本主義によって確立されたルールの一つが、個人に帰属される財産権と著作権というものであり、それはアート市場を成立させる重要な基盤でもある。だからこそバンクシーなどは匿名性を前面に打ち出すが、それでも彼の作品が高値で取引される奇貨になってしまうことに変わりはない。それに対し、ロビン・ホワイトは逆の発想で取り組んだ。匿名性ではなく、不特定多数の人間を、しかも決してアートの作者としての権利を主張しない文化圏の人間を、あえて作者にしたのである。資本主義が出来上がる以前から存在する生活様式のなかに、実は現在の状況をひっくり返す可能性が潜むのではないかと、大胆にも示したのである。

 

Seen Along the Avenue_大通り沿いで目にしたもの_2015-2016

大通り沿いで目にしたもの

 

繰り返すが、ぼくは現代アートについてなにも知らない。上に書いたものはすべて独断に過ぎない。作品を見た方がぼくと全く逆の感想を抱く可能性もあるだろう。どちらが正しいのかというわけではなく、自分の目で見て、自分の頭で考える、この最も基本的なことこそが、最も大事である。ただ、基本的なことはスポーツの基礎練習と同様、楽しくもなければ、効果を感じるのにも時間がかかる。そしてなにより、疲れるのである。だからぼくも、カフェで疲れを癒やした後、しばらくは現代アートを見ないことにした。

 

 

 

魯迅 著
竹内好 訳
筑摩書房2009

 

この凄惨な小説を読んだのは、高校二年生の国語の授業でのことだった。国語教師は50歳前後と思われるおじさんだが、おじさんに似つかわしくない熱血さと気骨を持ち、授業中に「人民代表選投票用紙」をみんなに見せ、つばを飛ばしながらこう言ったことがある。

 

全人代の代表を選出しろと、学校からこんな用紙が配られたけれど、ここに書かれてある立候補者が誰なのか、私にはさっぱりわからん。こんな顔も知らない人間のなかから、自分の意見の代弁者を選べというのか?全くふざけている。

 

全人代は5年に一度だから、おじさん先生が顔も知らぬ人間に投票させられるのは初めてではないはずだ。となれば、5年毎に学生に同じ話をしているのだろうか。何度も同じ話を繰り返しながら、ちっとも変わらない現状を、この人間の精神の育成の重責を担う国語教師はどうおもっているのかーー可能であればぜひ母校に戻ってあの先生と語らい合いたいが、今はっきりと断言できるのは、この発言によって、彼がクラス中から50歳のおじさんが通常得られぬ敬意を得たということである。そんな人物に導かれ、スモッグが空を覆いつくさんばかりの空気を持つこの作品を読んだことは、今思えば幸運だとしかいいようがない。

 

小説のあらすじはこうだ。

 

祥林嫂(シャンリンそう)は、夫が死去したために姑に売られそうになり、逃げ出して魯家でお手伝いをし、働き者として一目置かれるほどだった。しかし姑に捕まった彼女は、無理やり再婚させられた。やがて息子が生れて、二番目の夫と慎ましくも幸せに暮らしていたが、その夫が病死し、そして最愛の息子が狼に内臓を食べられて死んでしまう。祥林嫂は再び魯家に戻って、働き始める。今度は不浄の女としてのけ者にされるようになった彼女は、自分が死んであの世に行ったら、二人の夫が奪い合うことにより、 体がのこぎりで分割されてしまうことを心配するようになる。その為、彼女は貯めていた全ての工賃を果たいて寺に敷居を寄付し、千人、万人に踏んでもらえば贖罪ができると考えていた。しかし、それでも「祝福」の祭事の日に、不浄と見られたために祭事用の食器を触れさせてもらえなかった。その時から、祥林嫂の精神は完全に崩壊し、最後は乞食となり、大晦日前の「祝福」の日に亡くなるのであった。

 

悲惨だ、実に悲惨だ。タイトルの「祝福」は普段使われるような意味の他に、「幸福祈願の伝統的な祭祀」の意味を持つ。ほかの人々が祭祀に勤しむ中、主人公の祥林嫂だけが排除され、ついに餓死するのだ。祥林嫂は「祥林の奥さん」という意味であり、彼女は自分自身の名前で語られることさえできず、いわば非人間的な存在として生贄にされたも同然である。そうした因習に囚われた社会の非人間性を批判する側面が、当然この小説の重要なテーマの一つである。高校の国語教科書にはそうかかれてあるし、先生からもそれ以上の見解が示されなかった。

 

だが、高校時代以来、ひさしぶりに『祝福』を精読したぼくの心を捉えたのは、息子の死を繰り返し語る祥林嫂の聞き慣れた繰り言や物語の凄惨さではなく、物語の語り手として登場する「私」が何気なく語った次の感想である。

 

やはり出ていって、明日街に行ったほうがいいのだろう。福興楼のフカヒレの煮込みは、1元で大皿いっぱいだ。安くてうまいが、今は値上げしたのだろうか。昔一緒に遊んだ友人は、今四散したけれど、フカヒレは食べなくちゃいかん。たとえ私一人しかいなくても……いずれにしても、明日ここを離れよう

 

ここでの「私」は、5年ぶりに故郷に帰ったが、生家がもうないため親戚の叔父の家に居候していた。しかし叔父を含めた親戚や顔見知りは、5年前と比べてどころか、数十年間変わっておらず、昔のままの価値観と慣習のなかで暮らし、変わったのは肉体の老化のみであった。その状態に居心地を悪くした「私」は、「明日ここを離れよう」と決心し、上の感想に浸るのであった。

 

「読む度に新しい発見があるのが魯迅だ」とよく言われるが、この箇所がまさしくそうだった。高校のときに誰も気に留めなかったこの心理描写は、研ぎ澄まされた刃の如くぼくに突き刺さった。魯迅と同じ心境が、ぼくにはたしかにあったからだ。

 

コロナ禍で2年以上故郷に帰っていないが、故郷そのものへのノスタルジーはまったくない。むしろコロナ前から、「帰省」という言葉が重石となりつつあり、帰国の航空券を取るのに自分を奮い立たせなければならないほどだった。故郷に帰るのはそこが故郷だからではなく、単に親が今もそこに住んでいるからに過ぎない。それでも、血縁以外で故郷が残した痕跡を無理やり探し出すのなら、まさしく魯迅が書いたように食べ物だということになる。ぼくの地元は「燴麺(ホイメン)」という羊骨スープに幅広麺の郷土料理が有名で、ときどき無性に食べたくなることがある。だが、それも単なる就寝前の妄想だ。故郷がもたらすストレスに思いを致せば、その味のためだけに帰郷することなど、到底ありえないのである。

 

大文豪と同じ心境になっていたことを確認でき、一瞬だけ喜んだが、すぐにより大きな沈痛を帯びた靄にぼくは沈んだ。数年前からなぜ故郷に帰りたくないのかを考え始め、その度に「でも、もう少し歳を取れば考えも変わるかな」と結論を先送りしていたが、魯迅は残酷にもぼくに冷徹な結論を突きつけたーーいつまでも変わらぬ故郷に疎外感を持つのはお前だけじゃない、すでに100年前から、そうした人間が中国に大勢いた。彼らは結局、ついに本当に全く帰ってこなくなるのだ、と。

 

もちろん、故郷を離れた若者が帰ってこないのは中国だけの問題ではない。日本でも地方創生だのUターンだのIターンだのと言葉遊びに興じているように、都市と田舎の軋轢は世界中どこでも頭痛の種だ。しかし、そうした政策論争の前提となっているのは、単に生活の利便性の違いなど物質面だけである。精神面では、田舎に溶け込むことの難しさを取り上げる記事がなくはないが、読んでみるとしきたりをあげつらうだけの無価値のものか、現地に溶け込んだ成功事例の紹介に留まっている。これらの記事の執筆者からすれば、都市と田舎の違いは対話と行動によって、わずか数年間で埋めることが可能なものである。考えてみればそうだ、いくら都会と田舎とで違うと言っても、2020年代に生きる日本人は等しく日本で生まれ育ち、等しく近代化を経験し、等しく戦後民主主義の風潮とその流れをくんでいるのだから、違いといっても、同じ日本人の内部に属するものだ。1951年の映画『カルメン故郷に帰る』のように、都市と田舎の違いが戦前と戦後の違い、日本とアメリカの違い、文字通り別世界のような違いを彼らが感じ取ることは、もともと不可能なのである。

 

だが、魯迅やぼくが感じている疎外感は、そのような生易しいものではない。日本と中国は、いくら同文同種という事実があるとはいえ、少なくとも目下は価値体系を全く異にする国家だ。20代の多感な時期に日本で8年間暮らした魯迅、かれこれ併せて人生の半分近くを日本で送ったぼく。ぼくたちが日本で感じ取ったのは、自分が生まれ育った環境と全く異質な時空であり、異質なものに長年どっぷりと浸かった結果、その色と匂いに否応なく染まった自分だ。中国のいる一部の知り合いがぼくのことを「なんとなく日本人っぽい」と形容し、その度にぼくは「どこが?!」といぶかしがるが、おそらくぼくの体には異質さが染み付いており、彼らは敏感にそれを感じ取ったのだ。異質さは個人の力で消し去ることがもはや不可能なほど深く浸透し、魯迅もぼくも「故郷にいた頃と比べ、決定的に異なる人間になった」ことを前提に、生きていかねばならないのである。『祝福』を読み解く出色の論考を書いた代田智明を引用するなら、ぼくたちの心境はこういうことになる。

 

「故郷は、なつかしさやうきうきした気分をもたらすものではなく、何の変化や進歩もない沈滞した空間であった。(中略)『私』は故郷にとってもはや『よそ者』でしかない。」

 

 

これこそが、より深いレベルの「絶望」につながるのである。ぼくは前回、魯迅が絶望したといっても、書き続けている以上は何らかの希望を持っているはずだと書いた。因習批判、庶民への愛憎入り交じる視線、そこには故郷と故国の人々に寄り添おうする人文主義者の姿があり、その姿でいられることこそ、魯迅が希望を燃やし続けている証なのだとぼくは思った。しかし、『祝福』に出てくる「私」はもはやそうではない。「私」は故郷から距離を取り、祥林嫂のようなもっとも悲惨な民衆からも距離を置き、彼女の餓死に「心が伸びやか」になり、こんな感想を持つのであった。

 

失意のどん底にある祥林嫂は、人々によって塵芥のなかに捨てられ、飽きられた古ぼけたおもちゃとして、かつては姿形を塵芥にさらしていた。楽しく生きている人から見ると、彼女がなぜ存在しているのか不思議に思うだろうが、いまは死に神によってきれいさっぱり掃除されてしまった。魂の有無は私は知らない。けれどもこの世で生きるすべのない者が生きることをやめ、つまりは見るも厭な者が見えなくなることは、その人にとっても他人にとっても、悪くはないであろう。

 

「私」は冷淡になったのか、それとも現実に屈したのか。いや、そうではない。「私」は知ってしまったのだ、祥林嫂の悲劇は彼女がコミュニティに排除されたがために起きたものであり、その点ではぼくや魯迅と同じだということを。異なるのは、ぼくと魯迅は自らコミュニティに回帰する望みを捨て、外部に逃げることができるのに、祥林嫂はどこまでもコミュニティに戻ろうとし、結局最後まで叶わなかったことだ。逃げることができなければ、もはや死ぬことでしか、自分を虐げるコミュニティから脱出することができないのである。

 

 

ここに至って、魯迅は「子供を救え…」と声を上げていた時代からの変化を見せた。救えと叫んだところで、また運良く救われたところで、大多数の庶民にとってその救いはほんの一瞬に過ぎず、次の転落に向けた序曲でしかないことに気づいたからである。「子供を救え…」という声にならぬ叫びは、少なくとも未来への期待を抱くためのものであったが、『祝福』では、祥林嫂の希望の象徴である子供が、狼に内臓を食べられて死ぬという未来を消し去る状態に陥ったのである。だから『狂人日記』を収録した小説集のタイトルが『吶喊』(「叫び」の意)だったのに対し、『祝福』を収録したのは『彷徨』だったのである。魯迅の前には救いようのない国と民族が横たわっており、今や彼は、レトリックとしての絶望を超えて、より深く、脱出不可能なほど社会の構造に絶望したのである。

(続く)