これも安倍元首相銃撃事件の裁判に関して書かれた社説の中にあった。
「いかなる事情があろうとも、人命を奪う行為は断じて許されない」
山上被告が、旧統一教会、そこに入信した母親、旧統一教会を応援しているみたくな安倍元首相に対してどれほど怒り狂っても、人命を奪うという行為は間違っている。
これは一理ある。私もそう思う。だが、100%そうだと言い切ることはできない。
その理由は3つ。
1つ目。だとしたら、死刑制度は断じて許されない、ということだ。
この死刑制度も、いいのか悪いのか、私には全く答えが出ない。
重罪を犯した。それを死で決着させるのはある意味安易ではないのか。普通に命が尽きるまで、自分のしたことに向き合うべきなのではないか。
人が変わるという可能性はゼロだとは言い切れないわけで、その芽を他人が摘んでしまっていいものか。
だけど、じゃあ、その人の命が尽きるまでにかかる費用は税金から出すのか? 下世話な話だが、それもなんか割り切れない。
一方で、被害者側はどう考えるか。
例えば自分の大切な人がむごたらしい目に遭わされ、殺されたのに、手を下した張本人がのうのうと生きているのは許せない、そういう心情は理解できる。
ただ、理解できると簡単に言えないほど、複雑な思いを抱えているに違いないとも思う。仮に死刑が執行されたからといって、ああ、これでせいせいしたという気持ちにもならないに違いない。
…等々考えると、堂々巡りするばかりで一向に自分なりの結論が出ない。
2つ目。だとしたら、自殺も断じて許されない、ということだ。
これは私の主義とは反する。
自分の命を自分で終えさせる、と結論を出したなら、それを尊重すべきだと思う。
人が一人死ぬ、ということは、その本人だけの問題ではない。少なくとも周りの人にいろんな意味で影響を与え、迷惑をかける。だから、周りの人は必死にとめようとするかもしれない。
それでも自ら命を絶った。そのこと自体、決して責めることはできないと思う。
それから3つ目。だとしたら、戦争は全面否定ということだ。
人命を奪う行為は断じて許されないなら、戦争そのもの断じて許されないことだ。
なのに、今も昔も戦争はなくならない。
「いかなる事情があろうとも、人命を奪う行為は断じて許されない」の一文。
そう簡単な、そう単純な話では決してない。
年を経て この一文に 泣くのかも
鞠子