子どものころは、60歳過ぎた人なんて「老人」で、かつ「世の中のことを何でも知っている人」で、かつ「諸事に対する正解を分かっている人」で、かつ「もう何も迷ったりしない人」だと思っていた。
だがしかし、実際に60を過ぎてみたら、それらことは全く違っていたことを痛感する。
確かにハード面は「老人」を意識することが多いが、ソフト面は若いころと全然変わっていないし。
世の中のことなんて、いまだ知らないことばかり。正解も全然分からず、毎日迷う。そんな憂い事ばかり。
たまたま仕事で、某自治体のごみ処理に関するあれこれを知る機会があった。
ごみ処理には、溶融式とかストーカ式とか何種もあって、自治体によって違った処理方法を採用していること。中には、ごみを全く燃やさないという処理方法を採っている自治体があること。だけど、どの方法にも一長一短あること。いずれにしても脱炭素やらカーボンニュートラルやらで、ごみ処理方法を喫緊に見直さなければならないこと。そして、それには莫大なお金&準備&手間がかかること。
全くもって、知らないことばかりだった。
…ってそれ以前に、これって大問題じゃん。
おまけに、何より驚いたのは、処理するごみの量。
某自治体はそんなに人口が多いわけではないのだが、それでもごみの量はトン単位。燃やそうが溶かそうが灰等が出てくるわけで、ごみの最終形は決してゼロにはならない。
私たち、こんなにごみを排出して、地球はもつのだろうか。
かといって、ごみを出さない生活なんて、どう考えてもできそうもない。
結局、私は、
〇ごみ処理に関して……全然知らなかった。
〇ごみ処理問題の解決法……全てよし、という正解は分からない。
〇では、どうするか……迷う。
ということで、ごみ処理一点に限っても、大きな憂い事なのだ。
身の回り、全部が憂い事。
どう見たって、憂い事じゃないことなんてない気がする。
とはいえ、私一人が悶々としたところで何も変わらないんだから、捨て置け!も何かすごい無責任な気がして釈然としない。
なんや、この60歳強。
あの頃、予想していたのと本当に違う。
憂い事 なくなったとき 消えるとき
鞠子