本日の映画鑑賞は『怪物』。
是枝裕和監督の作品で、第76回カンヌ国際映画祭において脚本賞、クィア・パルム賞を受賞した。
この映画、ポスターの真ん中に、腹切りレイアウトで大きく「怪 物」とある。
その「怪」と「物」の間に縦書きで書かれているのは「だーれだ」。
「怪物」は誰か。
ずばり「登場人物、全員」……なのだが、その「怪物」たる所以がなんともストンと胸に落ちないのである。
例えば、
冒頭、シングルマザーの親子(麦野早織・湊)が出てくる。
湊、学校から帰ってきたとき、耳から血を流していた。靴が片方ない。水筒から砂利が出てきた。
これは絶対何かある。
彼に暴力を振るっているのは、あろうことか、担任教師の保利らしい。
…ということで、母親は学校に乗り込むのだが、その母親の姿がまず、何か胸に落ちないのである。
「母親、半狂乱」なら納得できる。ところが、この母、怒っているには怒っているのだが、何かが違うのだ。
息子に対する言動も、決して無関心ではないのだが、心配しているのか気遣っているのか、よくわからない。どこかとっても「冷静な部分」がちらっと見えたりするのだ。
応対する学校側も、最初は「こんな校長、こんな担任、こんな対処の仕方があるのか。ありえん」と思うのだが、事を荒立てないためとか保身のためとか、どうもそんな単純なことではないように見えてきて、だんだん分からない度が増す。
「怪物」なのは「人」だけではないぞ。
「生きている今、この時この時」自体、怪物の集合体ではないのか。
ほんの少し狂ったタイミングが、次の誤解を生み、次の事件を引き起こし、次第に手のつけられない事態にどんどん進んでいってしまう。
小学5年生の湊と依里。
この2人の日常、そこから生まれる心中を、言葉で表現することなどできないわけで、だけど、言葉で表現しなければ、次の誤解を生み、次の事件を引き起こす。
彼ら以外のクラスメイトも、ごく普通の子ども、ごく普通の学校生活を送っているように見えるが、部分部分を注視してみれば、みな「怪物」であり、「怪物の時間」を過している。
ただ一人、分かりやすかったのは、保利の恋人・広奈。
初めから、この女は「あっけらかんと軽薄に違いない」と見て取れた。
最後まで、その通りだった。
演じた高畑充希さんぴったり、ハマり役だった。
いや、もしかして、怪物でないのは広奈だけかもしれない。
でも、嫌な女で軽蔑の対象、というこの矛盾。
怪物は ココロを持つか 持たないか
鞠子