教えることができない | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

今週は、疲労困憊週だ。

1か月前、職場でプチ異動みたいなものがあり、私の仕事を担うべくヤカラが約1名配備された。

ところがこのヤカラ、ムリムリ配備された感満載(←実はどうにも仕方なくこの位置に配備されたのだが)で、被害者意識が充満している。

とてもやる気があるようには見えない。

ときどきやる気をチラと見せてくるときがあるのだが、私にしたら「?」な質問ばかり投げかけてくるので、非常に疲れる。

 

今日も、「この取引を振替伝票に書けますか?」と聞いたら「書けます」というので任せたら、「借方:消耗品費・貸方:未払金」と書くべき伝票に「借方:仮払金」と書き、「貸方は現金ですか」と聞かれたのでアゼンとしてしまった。

振替伝票が書けないことが問題なのではない。できないならできない、分からないなら分からないと言ってくれればいいだけのこと。そうじゃなくて、これで「書けます」と言えてしまうことが大問題なのだ。

もうイラついてしまって、彼から伝票を取り上げ、ついに自分で書いてしまった。

その上、私の書いた伝票を見ても、ヤカラは全然悪びれていない。

言いたくないが、ヤカラも私も、「日商簿記二級」で資格的には同レベルなのだ。

 

だが、ひとえにこのヤカラのせいだけではない。

彼が配備されて以降、私はこの春定年に至ったまでの己の仕事歴史をいやおうなしに突きつけられており、冷静に考えればお互い、非常に「運が悪い状況」に陥っている。

 

私の仕事歴史というのは、もともと形もシステムも整っていなかったモロモロを、自力で整理し実務として成り立たせてきた、という感じなのである。

それも一人で。

···と言えば、めっちゃカッコいいが、要するに全てが「鞠子流」になってしまっているのである。

そして、その「鞠子流」は、全部自分の頭の中にある。

だから、全然違う人が引き継ごうとすると、なんでそうなっているのか、なんでそこにこだわっているのか、理解できなくても無理はないのだ。


おまけに私自身、「鞠子流」をきちんと系統立てて教えることができない。

 

例えば1枚の会議資料をつくったとき、パッと見て「これはバランスが悪い・この書体じゃない方がいい・これは2枚に分けたほうがいい」etc.、自身の感覚で判断して整えてしまっているのである。

で、その資料を見る人たちはウン十年見ているわけで、それ以外のパターンの資料が出てくると、「見にくい・分かりにくい」となってしまうのだ。

こういう「感覚」を、私は言葉にできない。

 

もっとさかのぼれば、私自身、誰かに仕事を引き継いだとか、誰かに教えてもらったといった経験がない。

適切な指導の言葉を持たない私が、ムリムリ配備され、全身受け身で座っているヤカラに教えても、うまくいくはずがない。

そのうち「自分でやったら10分でできるのに」となってしまう。

 

…という仕事の繰り返しで、疲労困憊。

ヤカラも別の意味で疲れているだろうが、なにせ私の息子くらいの年。

寝れば疲労回復に違いない。

 

定年後はのんびりゆっくり働けるはずだったのに……

 

 

 

 

 

 

 

余白にも 意図があるのに 伝わらず

鞠子

 

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