ヴェネチア国際映画祭にノミネートされた『ある男』。今日、観に行ってきた。
仕事中、不慮の事故で死んだ夫(←谷口大祐と名乗っている)が、実は谷口大祐ではなかったことが判明。妻から調査を依頼された弁護士が彼の過去を探っていくという設定なのだが……
観ながら思った。
私が「鞠子」であることを、普段、自分自身、全く疑っていない。なぜなら、物心ついたころから両親を含め周りの人たちはみな私のことを「鞠子」として扱ってきたからだ。
保険証を見てもマイナンバーカードを見ても、私は「鞠子」になっている。
だが果たして私は本当に鞠子か?
「身分を証明するものをお持ちですか」と問われるとき、保険証や免許証を出すが、そんなもの、ただのカードであり、私が鞠子である「絶対的な証拠」にはならない。
大祐と名乗っていた男は、想像通り、消したくても決して消すことのできない過去(←それも親の、なのだが)から逃れるため、別人になり変わっていた。
そのなり変わられた別人も、自分を取り巻く周囲から逃れたくて、別の人になっていた。
そして、調査を依頼された弁護士・城戸も、在日という「過去」を持ち、やはりそこから逃れられずにいた。
外部からなされる差別やヘイト以上に、自分自身が自分の過去からたえず鈍痛を与え続けられている。
大祐の妻が、真相が分かった後に言う「夫がここで生き、生活し、存在していたことは真実だ」に胸を打たれた。
大祐も城戸も、過去がどうあれ、今、ここに存在している。考えてみれば、「人が生きている」とは、それだけのことではないか。
そうだ、突き詰めれば、私が鞠子であろうとなかろうと、ここにいるという真実、それだけで十分なのだ。
だがしかし、ことはそれほど単純ではない。
映画のラストは、妻が自分を裏切っていると知った城戸自身が、全てを捨て、別の「ある男」として生きていると思われるシーンだった。
「今、ここに存在している」ことも実はとても不安定であり、あっという間に崩れ去るのだと暗澹たる気分になった。
大祐を演じるのは窪田正孝さん。心の闇が痛々しいほどだった。その一方で、二役で大祐の父も演じるのだが、この狂気もすごかった。
それからもう一人、柄本明さん。戸籍を売り買いする詐欺師を演じるのだが圧巻。人間の奥底を知り抜いたぞっとするほど怖い犯罪者だった。
目の前の 貴方も明日は 別の人
鞠子