先日、某女性と雑談している最中、その人が「現在無職である」ことを初めて知った。
いちお、定年退職されたのである。そのあと、再雇用で働いたがそれも終わりを迎えたらしい。
私はその某女性を決して好きではなく、むしろ「余計なことを言わない方がいい人」だと警戒しているのだが、一方で仕事は几帳面にやり遂げる人だろうな、とは思っていた。動作がきびきびしているし、話し方も快活だから。だけどその分、人にも厳しいだろうな、と想像する。
某女性「働かない?とお声がかからなくはないんだけど」
鞠「でしょうねえ。まだ十分お若いし、お元気だし。遊んでいたらもったいないじゃないですか」
某女性「でも、もう絶対働かない。いまさら1時間800円か900円かそこらで、年下に使われるのは嫌だから」
なるほど、彼女の雰囲気からすると、さもありなん、かな。
でも、私からすると、それは意外な視点だった。
私の職場は、もうだいぶん前からオール私より年下。しかもオール男。誰も、私が年長だからと敬っているようには見えないし、みんなタメ口状態だが、私自身そのことを嫌だと思った覚えがない。
年下に使われている、という意識がまるでない。年上だから立てよ、という気持ちも毛頭ない。
それに、1時間800円でも900円でも、誘われた先が心地よい職場なら、私なら絶対働くな、と思う。
それは「持ち金、減る一方」が不安でならないからだ。少しでも「持ち金、増える」なら、その方が気分的にはハッピーだ。
それよりなにより、完全に仕事をやめたら、私は「人間失格状態になる」ことが目に見えている。
夜、いつまでも起きている、朝、全然起きない、一日中パジャマ姿、化粧もしなければ髪も直さない。ご飯も食べたり食べなかったり。なのに酒量やお菓子量だけがやたらと増える、きっとそうなる。
…と、実は私は究極のナマケモノであることを告白したら、某女性、
「そんなことはない。時間的な束縛が全くなくなると、逆に時間を管理しだし、規則的な生活になる」
と断言した。
ご本人、まさしくそうなのだそうだ。
やっぱり私とは、人間の種類が違っていた。
「働くこと」は、私にとって「人としての尊厳を保つための最適な外圧」なのだ。
もし彼女のように「内圧」でそれができるなら、私も働かずにすむのに。そう思う。
「働く意義」に 己の老いを 自覚する
鞠子