偶然目にしたエッセイに「知人が交通事故を起こし、相手を死なせてしまった」ことが書かれていた。
亡くなった人の方が飛び出したらしい。実況見分中、警察の人がその知人に向って「あと2秒、家を遅く出ていたら」みたいなことを言った、とあった。
この話、ため息が出る。
人生100年時代になったと言うが、それでもたったの100年なのである。できるだけ「楽しく生きる」ことを自分の手で作り出していかなければあまりにももったいない「短さ」ではないか。
だが、そのよな努力をしたとしても、たった2秒で、それも一瞬のうちに奈落に落ちてしまうのだ。
このエッセイの「知人」だけではない。
私の友人のお母さんも、家の中、階段から落ちて頚椎を損傷、身体のほとんどが麻痺し、完治は見込めない後遺症を負ってしまった。
幼いころ、プールで飛び込んで、同様の状態になったという男性の話も耳にしたことがある。
二人とも、2秒の前と後で、人生が一変してしまった。
お母さんが2階で1枚シャツを畳んでいたら、飛び込む前、男性がゴーグルをつけなおしていたら、こんなことにはならなかったかもしれないと思うとゾッとする。
私自身、何かよろしくないことに直面して、こうした「2秒の差」を後悔の念まじりに頭に思い浮かべたことは何度もあるが、どう悔やんでもその2秒は取り戻せないので、「いや、2秒早かったら(あるいは遅かったら)もっとよろしくないことになっていた」と自分に言い聞かせていた。
しかし考えてみれば、そう言い聞かせて何とかなる程度の事態にしか遭遇していない、ということだ。
この「知人」や「友人のお母さん」や「男性」のようなことになったら、心がつぶれてしまう。こんな言い聞かせでは全く自分を納得させられない。これが運命だったのだ、などと受け入れることは到底できない気がする。
幸運にも私は、この程度の言い聞かせで、これまでやり過ごしてくることができた。
それもまた、意識しないまま、それこそ幸運にも「きわどい2秒」をかわしてきたからなのだ。
つまり、今、とりあえず普通でいられるのは「全くの偶然」。
もちろん明日はどうなるかわからない。
…やっぱり、楽しく生きるべく、努力しよう。それしかない
笑ったり 泣いたりできる それが幸
鞠子