取っている新聞に、毎日、記者が書いているコラムが載っている。
毎日、違う記者が書いている。所属する支局名と名前しか記載がなく、詳しいことはわからないが、内容からすると、新人からベテランまで執筆しているようだ。
で、今日の書き手は中堅、と見た。
プロ棋士の言葉を引きつつ、ネット記事と紙面の記事のあり方に頭を悩ませていることを記し、自身の反省とこれから頑張る旨の抱負が書かれている。
内容的には共感できるものだったが、それゆえになおのこと「これまで、血へどを吐く思いで取材の仕方や記事の書き方を学んできた」との一文に、なんだかとってもがっかりした。
取材することも記事を書くことも、相当に大変な作業であることは重々理解できる。
それこそ、他人の悲しみや苦しみに手を突っ込まなくてはならないようなこともあるだろうし、権力を振りかざす相手に命がけのこともあるだろうし。
今日の記者さんも、「血へどを吐く」ようなことが何度もあったんだろうと思う。
でも、だからこそ、それを「自分で言ったら価値が下がる」と思うのだ。
こうして自分で言われたら、「でも、好きでその仕事についたんだから、私(読者)の知ったことではない」となってしまう。
例えば「これまで、懸命に取材の仕方や記事の書き方を学んできた」の方が、好感度が上がる。
「血へどを吐く思い」などと書かなくても、わかっている人はわかっている。
こういう意味合いのことは、むしろさらりと書く。
普段、特別意識したことはないが、私は仕事やプライベートで文章を書くとき、「なんとなくそうなって」いる。
もちろん、それが「特徴がない」「インパクトがない」という弱点になっていることも確かだと思う。
血へど吐く 記者に会って 確かめたい
鞠子