コロナ禍、無期限休止状態となっていた合唱団の練習が、近々、再開されることが本決まりになった。
世の中の動きを見ていても、当然の流れだと思う。練習会場も、大きなところを予約したとのことだし、もはや自粛する必要はないだろう。
でも全く迷うことなく、私は「参加しない」旨、返信した。先生にもお世話してくれている役員さんにも音楽トモにも申し訳ない気持ちはあるが、どう考えても、やっぱり怖いからだ。
仕事関係で、感染者、濃厚接触者頻発。なかには、「気づいたら集中治療室にいた」という重篤症状に陥った人もいた。あるいは、多くの社員が欠勤を余儀なくされ、仕事に支障をきたしている客様の会社も少なくない。
うちの職場の場合、誰かが感染したら間違いなく一定期間「休業」しなければならなくなる。その感染が、仕事の場で、とか、病院で、とかならやむを得ないし覚悟もしているが、「プライベートの趣味の場で」では、あまりにも迷惑が大きすぎる。
…と、参加しない理由は「仕事が第一」ではあるのだが、実はもう一つある。このコロナ禍の2年超の間に「音楽に対する思い」が変化したから、という理由も多分にあるのだ。
歌でもピアノでも、「人に聴いてもらうことで力がつく」というのは間違いないと思う。だがこの「人に聴いてもらう」という働きかけをすることに、私は多大なストレスを感じる。たいしてうまくもないのに「聴きにきて」と言うのがすごく嫌なのだ。
創作活動も同じで、小説でもエッセイでも、「人に読んでもらうことで力がつく」ことは重々承知しているが、「読んで」と言うのが嫌でたまらない。たとえ賞をいただいたとしても「この程度の作品で…」という思いがぬぐえず、「読んで」という気にならない。だったら、そもそも文芸祭なんかに応募したりすることすらおかしい……と、また、その矛盾が、結局、さらにストレスを増大させる(←自分のせい、なのだが)。
コロナ禍、有り余る時間のなか、音楽でも創作活動でも、「人に聴いてもらうor読んでもらう」というストレスはもう嫌だ、という気がしてならなくなった。
自分一人で楽しむ方がいい。たとえそれで力がつかなくても ―― こんな考え方、マイナス思考が過ぎるだろうか。こんな考え方では、人生がつまらなくなってしまう一方だろうか。
それともいつか、また変化するだろうか。
人生が 一色一色 欠けていく
鞠子