講評にうちひしがれる | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

県文芸祭作品集が送られてきた。

今回の私の成績は、小説が佳作で随筆が入選だったため、作品そのものは掲載されない。1週間ほど、県営の公共施設に展示されているのみだ(←見にも行ってないが)。

 

ただ、佳作以上は、選者の講評が載っている。

これを読むたび、毎回、いろんな意味でがっかりするのだが、今回は、がっかり度合いマックスだった。

 

自作に対して、「ここは不要」と指摘された部分があるのだが、私にとってはむしろ「根幹」で、そこが一番言いたく、そこを言うために他部分を書いた。

この部分をカットしたら、単なる「事例の羅列」に終わってしまう。

 

···だけど、これは「私の一方的な思い込み&ひとりよがり」であり、「それは読み手には通用しない」というご指摘なのだとも思う。

 

···と、これだけなら、うちひしがれたりは決してしなかった。

がっかり度マックスだったのは、大賞を取った随筆に対する講評。

 

好評を読む前に、作品を読み、それから講評を読んだ。

「最初の数行で心をわしづかみにされた」のだそうだ。そして、大絶賛。

 

···私は、最初の数行に何も感じなかった。作品全体も、可もなく不可もなく、だった。

 

ということは、つまり、私はこうした作品に対し、全く目利きができない、ということではないか。そんな人に、受賞に値する作品が書けるわけがない。

 

選にもれたがっかり度の何倍も何十倍も、そのことの方がショックだった。

 

 

 

 

 

書く意味を  求めることが  無理なのか

鞠子

 

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