昨日は「見たい欲求と見せたい欲求」と書いたが、もうひとつ、「見てしまった不幸と見られてしまった不幸」もあるな、と思う。
文学講座で取り上げられた尾崎士郎の『悲劇を探す男』
「私(←尾崎自身)」は「妻(←宇野千代)」とこじれてからまった別れ話のあと、自分たちと同様、こじれた夫婦の修羅場を「偶然、見てしまう」。そのせいで、ますます心中荒れ、苦しみが増す。
見なきゃよかったのだ。
なんの関わりもない他人たちのせいで、不幸が増す。もちろん、他人たちは、人を不幸にしたなどという認識は全くない。
こういうこと、往々にしてある。
子どもが親にひどい叱られ方をしている・衰えた老親がぞんざいに扱われている・同年代の人が苦しそうな治療を受けているetc.
赤の他人のそれらを見てしまったがために、自分まで痛みが増す。
そして逆も。
往来で転んだとき。
打った足の痛みより、誰がに見られたのではないかと、それがまず気になる。
うっかり車をぶつけてしまったとき。
まわりの車や通行人の視線が刺さる。
…などと考えると、「見る」という行為は結構罪作りだ。
それを毎日繰り返して生きている。