ナミダのクッキングNo.2568 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

神戸市の市立小学校で、教員4人が20代の男性教員をいじめていた、なるニュースを見た。

この事件だけでなく、昨今、起こっているさまざまを通して頭に浮かんだのは「歯止め」という言葉。
あおり運転しかり、ヘイトスピーチしかり、すべてにおいて「歯止めがきかなくなっている」気がする。
同時に、歯止めとは「一歩後退したが最後、ずるずると後退する恐ろしい性格のもの」とも思った。
 
歯止めがきかなくなっている理由 … 「主理由はSNSだ」と言ったら暴論だろうか。
 
今日、たまたま知人の娘さんの写真を見る機会があった。
正直、ぎょっとした。パッと見、一言で言えば「野性児」。熱帯雨林から裸で出てきました、と言っても通ずるようなルックスなのだ。
子どもの写真を見ることがメインだったわけではないのでコメントする必要はなく、そのまま素通りしたが、歯止めがきかなかったら口に出してしまったかもしれない。そうしたら、どんなに知人やその子を傷つけることになったか。
しかしSNS上だったら、「野性児!」「まるでターザン」などという言葉が、普通に、それも瞬時に飛び交ってしまうのだろうと思う。
SNSでのつながりが密になる一方で、生身のつながりは希薄になる一方。
相対して傷ついたり、癒されたりといった心の経験が圧倒的に少なくなっている。だから人の痛みに思いが至らない。自分に置き換えて考えられない。
 
「歯止め」とは良識あるおとなの条件だ。
「言論の自由」を守るためには、同時に「歯止め」も心しなければならない、と思う。(←この線引きは、人によって感覚が違うし、とても難しいと思うが)
 
いじめた4人にしてみれば、20代の男性教員には「いじめに値する何か」があるのだろう。
それが例えば「仕事ができない」「仕事に対するやる気がない」「要領よく立ち回り、嫌な仕事を避ける」みたいな一見「共感できる」理由だったらどうか。
逆に「見た目が気に入らない」みたく、本人のせいではない理由だったらどうなのか。
やっぱり、正当な理由があるにせよないにせよ「人格を否定するような暴言を頻繁に浴びせる」「羽交い絞めにして激辛カレーを顔にかける」なんてしないのが「歯止め」だ。
 
それにしても、あまりにも殺伐とした世の中。
嫌になる。