ナミダのクッキングNo.2417 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

今日、文学講座で先生が、作品の中のある部分を取り上げて「見たか・見なかったのか」「いたか・いなかったのか」と問われた。(これじゃ、何のことかわからないとは思うが、とりあえず詳細省略)
私は作品を読み、考え、答えは「見た&いなかった」としたのだが…

より正解に近いのは、実は「わからない」。

文学では、何も珍しいことではない。考えてみれば音楽もそうかもしれない。こう歌えば正解、なんてないのだから。
だが、「わからない」という答えが、とってもショックだった。

講座からの帰り道、いろいろ考えた。
10連休に入る前、私はものすごくイライラしていた。確かに仕事量が多かったことも一因だが、もっと大きな原因は、実は別のところに…

○私がこんなに追われているのに、なぜあいつはのんびりネットサーフィンしているのか。
○なぜあいつは、何の疑問もなくこんな文書が書けて、仕事がはかどるのか。
○なぜあいつは、このトラブルを問題視しないのか。
○なぜあいつは簡単なルーチンワークができないのか。

つまり、他人が自分の価値観や常識に外れたことをする「理由がわからない」ことが、一番のストレス要因だったのだ。

…そう考えると、例えば今日1日のうちでも、

○電車内、こんなに込み合っているのに、なぜこのオジサンは荷物を座席に置いているのか
○100均レジで、みんながフォーク並びしているのに、なぜこのおばあさんは直接レジ前に並ぶのか
○隣席との間が狭いビアホールなのに、なぜ隣の客は荷物カゴを通路に置くのか

…と、「理由のわからない」事柄は、いくらでも出てくる。

これら、理由は永久にわからない。仮に、一つ一つ相手に問うたとしても、私が納得する答えが返ってくるはずがない。
第一、そんなことをしていたら、私の日常生活は破綻する。

大袈裟だが、人生とは、わからないことの連続で、それを微妙な割合で「わからないままやり過ごせること」が、楽に生きるコツではないか、などと思ったのである。

…文学講座での問いが、なんだか妙な方向に発展した連休最終日であった。