ナミダのクッキングNo.2295 | 鞠子のブログ『ナミダのクッキング』

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今日、ちょっぴり悲しかったこと…

先週末のエクステンションカレッジで、課題図書から脱線して、さらにまた寄り道して、芥川龍之介『西方の人』の話になった。

中にあるこの一節、

「クリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る為に無残にも折れた梯子である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……」

について、

地上へ「登る」はおかしいのではないか、というご指摘なのである。

さらにこの点について、
①誤記説
②深読み説

があるが、さてどっち?との問いかけ。
その答えは、先生曰く、
「どっちでもいいんです」。

一気に拍子抜けだが、実はこれ、あ、そうなの、じゃあおしまい、ではないのである。
「どちらでもいい」ということは、「主張の勝負」ということになる。
説得力のある方が勝ちだ。

そう考えると、「①誤記説」は、とても裏付けにくい。
芥川が間違えた。例えば酔ってたから、とか、疲れてたから、とか、なんとなくやっちゃった…では、説得力に欠ける。
対する「②深読み説」は、何とでもこじつけられる。

実際、私は、芥川は意図して「登る」を使った、と思っている。
なぜなら、「くだる」より「登る」の方が、労力がいる分、「己にムチ打って」あるいは「強い意志を持って」という印象が強まるからだ。
キリストにとって、地上は苦難の地であり、「くだる」などという軽やかなものではなかったのではないか。
さらに、
「折れて傾き、土砂降りの雨に打ちさらされている梯子」は「くだるための梯子」より「登るための梯子」の方が、より壮絶で無残に感じられる。

『西方の人』はかつて読んだことがあったが、この一節、さっさとスルーしていた。
「『登る』なんて変じゃない?」なんて、ツユほども感じなかった。
情けない(--;)

それにしても、こんな「どっちでもいいことについて、ああでもない、こうでもないなんて、ムダなこと、やってんのね」というのが、お上の意向だろう。
だから、何の役にも立たぬ!文系不要!とおっしゃるのだろうが、はたしてそうだろうか。
どちらでもいい、つまり答えのない問いについて考え、より正しい答えを選択し、相手を説得させる…これはリーダーシップを養う訓練として不可欠だと思うけど。




濃厚な言葉は誤用すらキラリ
鞠子