今朝の朝刊・中学生向けのページに、執筆者が某小説家のエピソードを取り上げていた。
この某氏、中学生のころから「小説家になりたい」という夢を持っていた。
大学を出たあとも、ずっとこの夢を持ち続けていたが、どうしたらなれるのかはわからない。
フリーターのまま日々、暮らしていた。
当然、まわりは、「食べられるほどの才能はない」と反対する人ばかり。
そのうえ、唯一、応援してくれていた祖父も亡くなってしまった。
最大の理解者をなくし、彼はとうとう夢を断念した…のではなく、死ぬ気で書いた。
追いつめられ、半年間、書きに書いた。
結果、とある新人賞を受賞。作家としてデビューできたのである。
執筆者は、「夢や希望を掲げ続けよう。夢を実現するのは自分自身だ。自分を信じる。それは猛然と努力することだ」、そう結んでいた。
私が、このエピソードを「すばらしい!」と感じ、執筆者のまとめを「その通り!」と思うわけがない。
「なによ、この絵に描いたモチのような話は!」と怒るなら、いつもの私なのだが、今日は全く違ったことを思い、愕然とした。
今の私の「夢」は何か。
「小学生のころから持ち続けている夢」などないが、この年になった今の私の「夢」は何か。
それはたった一つであることに気づき、ショックだったのだ。
その「夢」とは、ずばり…
「苦痛のない日々を送りたい」
この先、死ぬまで、心もからだも傷つかず、痛まず、平穏に、楽に暮らしたい。
とりあえず、この足腰の痛み、重いからだ、気鬱感を払拭したい。
「夢」と問うて、即、そう思った自分がなんだかとてもなさけなく思えたのだ。
自分を信じよ。
猛然と努力せよ。
…ラストのこの励ましが、さらになさけなさを倍加させた。
全力で疾走した日が懐かしい
鞠子